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第6章 文箱

水無月三日、曇り。朝の鐘が九つ鳴ったとき、ゲオルクは裁き役コンラートの後ろについて、上町のザイデル館の客間に入った。


客間は広く、窓が三つあった。絨毯の上に、日焼けした四角い跡がある。いつもはそこに何かが置いてあって、いまは置いていない。何が置いてあったのかは、ゲオルクには分からなかった。分からなくてよいことだった。


当主のマクシミリアン・ザイデルは、窓を背にして立っていた。三十代の終わり。早口で、左手の銀の指輪を、右手の指で回す癖がある。


「書類が、失くなりました」と当主は言った。


ゲオルクは裁きの帳面を開いた。その場で書く控えだ。墨壺の蓋を取り、筆を濡らした。


『水無月三日 上町ザイデル館 書類一通 失せる』


ここまでは、書いてよいことだった。


*


「何の書類だ」とコンラートが訊いた。


「当家の、大事な書類です」


当主の指輪が、一回りした。


コンラートは、それ以上訊かなかった。ゲオルクは筆を止めて、裁き役の横顔を見た。太い眉が、少しも動いていなかった。


訊けば、答えが要る。答えがなければ、帳面にそう書かねばならない。裁き役が二度訊いて、二度答えがなかった。そう書けば、それは裁きの記録になる。コンラートは、記録にしないほうを選んだ。ゲオルクにはそう見えた。見えただけで、確かめはしなかった。


ゲオルクは『書類一通』のあとを、少し空けておいた。何の、を書く場所だった。


「いつ失くなった」とコンラートは訊いた。


「昨日の虫干しの、取りこみのときに。夜になって文箱を検めましたら、ありませんでした」


「文箱の番は」


「鍵番が」


当主は戸口に向かって、短く名を呼んだ。


*


鍵番のルッツは、二十代の後半に見えた。腰に鍵束を下げ、額に汗を浮かべている。曇りの朝で、客間は涼しかった。汗は、部屋のせいではなかった。


「倉にいた灰色が」とルッツは言った。「文箱から紙を抱えて、裏門から出ていくのを、見ました」


ゲオルクは書いた。言われたとおりに。


「どこで見た」とコンラートが訊いた。


「台所の、戸口から。いえ、その、ちょうど台所におりまして。ひと口だけです。汁を、ひと口」


「ひと口の汁を飲みながら、台所の戸口から、中庭の奥の卓が見えたのか」


「見えました。いえ、首を伸ばせば。伸ばしましたので」


ルッツの言い訳は長かった。長い言い訳は、言っている本人がいちばん信じていないことが多い。ゲオルクは十九年、裁き方の部屋でそれを聞いてきた。だが、それは書かなかった。帳面に書くのは、言われたことだけだ。


「灰色の、どれだ」とコンラートが訊いた。


「どれ、と申しますと」


「灰色は、何人いた」


「さあ。一人か、二人か。灰色は灰色ですので」


ルッツは困った顔をした。ゲオルクも、困ったことになったと思った。灰狼の顔は、人間には見分けがつかない。見分けがつかないものを、どう名指すのか。


*


窓の外では、虫干しの台が片づけられていた。脚を抜かれた台が、中庭の隅に積まれていく。昨日の紙の匂いは、もう残っていなかった。曇りの空の下で、石畳だけが白かった。


「荷運びの帳面がございます」と、当主の後ろから執事が言った。「昨日雇った谷の者の名は、帳面にございます」


執事が帳面を持ってきた。日雇いの払いの帳面だった。昨日の行に、四つの名が並んでいた。


『トゥル 灰狼 台と箱』『シャス 蜥蜴人 台と箱』……


ゲオルクは、少し意外に思った。館の者は誰も、谷の者を名で呼ばない。灰色、蜥蜴、と呼ぶ。それでも払いの帳面には、名が書いてある。銀貨を払うには、名が要るのだ。


「灰狼は、一人だけか」とコンラートが訊いた。


「帳面の上では、一人でございます」と執事は言った。「顔は、存じません」


ルッツが、鍵束を握りしめた。一人か二人か、と言ったのはルッツだった。帳面の上では、一人だった。


ゲオルクは、帳面の名を一つずつ控えに写した。名を写すのは、裁きに要ることだった。


「では、隊に谷へ行ってもらう」とコンラートは言った。「その場にいた灰色を、明日、裁きの席へ」


当主の指輪が、また一回りした。


「灰色が持ち出したことは、明らかでしょう」


「明らかかどうかは、明日決める」とコンラートは言った。


コンラートは立ち上がった。ゲオルクも帳面を閉じた。


貴人の館で亜人が何かに関わったとき、街はどう裁くのか。ゲオルクの知るかぎり、例がなかった。綴りの第一冊は、まだ薄い。明日の裁きは、たぶんそこに綴じられる最初の例の一つになる。


*


廊下に出ると、当主が客を一人、玄関まで送るところだった。同じ参事の一人だった。


「砦はもう要らない」と当主は言った。声は低かったが、廊下は声がよく通った。「峠の向こうから何も来ない。麦の手当てを減らせば、壁に回せる」


「議場で言え」と相手は笑った。


当主は笑わなかった。指輪を回していた。


昨日、裁き方の廊下で聞いたのと同じ言葉だった。今度は、書類を失くした家の当主の口から聞いた。ゲオルクはそれを、帳面には書かなかった。廊下は、裁きの席ではない。


裁き方の部屋に戻ると、ゲオルクは帳面を開いて、さっきの一行を見た。


『書類一通 失せる』


一通の前に、何の、を書く場所が空いていた。


ゲオルクは、空けた欄を埋めなかった。埋める言葉を、誰もくれなかった。


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