第5章 虫干し
水無月二日の昼、トゥルはザイデル館の中庭で、十二台目の台の脚を石畳に据えた。
中庭は、紙で埋まっていた。
台の上に、紙の束が三十あまり並んでいる。束ごとに麻の紐で括られ、紐の端に木の札が下がっている。札には字が書いてあるが、トゥルには読めない。読めなくても困らなかった。束ごとに、匂いが違う。
麦の匂いのする束がある。帳場の帳面だろう。蜜蝋の匂いの束、羊皮の匂いの束、雨漏りの染みの匂いの束。人間の家の、何十年分もの匂いが、日の下に並んでいた。
日なたの紙は、乾いた匂いを立てる。風が吹くたびに、束の端がぱらぱらと鳴った。
*
荷運びは、谷から四人だった。トゥルと、蜥蜴人のシャスと、土竜人の若いのと、蜥蜴人の若いの。
シャスは、台を運び終えるたびに日なたへ行って、体を温めていた。蜥蜴人は朝が遅い。日が高くなるまでは、指の先までなかなか動かない。
「灰色の若いの」とシャスが言った。シャスは人を足で覚える。トゥルの足は、まだ名で呼ぶほど覚えていないらしい。「今日は、よく鼻が動くね」
「紙の匂いが、多いから」
「熱も多いよ。人間が、そこらじゅうにいる」
中庭の奥の、日陰の卓に、黒い鉄の箱が置かれていた。蓋が開いている。中の紙は、出さずに箱ごと風を通すらしい。
箱の前に、人間の男が一人座っていた。腰に鍵束を下げている。座っていても、動くたびに鍵が鳴った。汗の匂いがした。
鍵の音の人、とトゥルは覚えた。
鍵の音の人は、昼のあいだに二度、箱の前を離れた。一度は厠へ。一度は、中庭の向こうの使用人と話しに。どちらも、蓋は開けたままだった。戻ってくると、鍵束を鳴らして座り直し、汗を袖で拭いた。
「灰色、そこの台を、もっと日なたへ」と鍵の音の人は言った。トゥルの顔は見ていなかった。トゥルの肩のあたりを見ていた。
トゥルは台を日なたへ動かした。
*
懐の蝋の欠片は、布に包んだまま、ずっとそこにあった。トゥルは台を運ぶあいだ、何度か鼻で確かめた。煤の匂い。篝火の煤。
中庭のどこかに、同じ匂いがある。
昼すぎに、それが分かった。鉄の箱のほうから、風がひと筋、トゥルの鼻をかすめた。古い紙の匂いの奥に、煤の匂いが細く混じっていた。
トゥルは、箱のほうを見なかった。見ないで、台の脚の向きを直した。
屋根の上に、黒いものが止まっていた。クラクだ。朝のうちに表の門から入って、割符の返しを受け取りに来た、と執事に言っていた。返しの書付ができるまで、屋根で待つことになったらしい。誰も、屋根の上の鴉を気にしなかった。
*
上町の鐘が、夕方五つを打った。
「取りこめ」と、館の使用人の頭が言った。
台の上の紙が、端から箱へ戻されていく。人間の使用人が束を抱え、谷の荷運びが空いた台を片づける。中庭が、急に忙しくなった。
シャスは、日なたの台の上で目を閉じていた。昼の温もりが残っていて、そこがいちばん暖かいのだ。使用人が台の上の束を抱えようとして、束と一緒にシャスの尻尾をつかんだ。
「これは、紙ではない」とシャスは言った。
使用人は飛び上がった。シャスは、取りこまれずにすんだ。
*
夕方五つ半の鐘が、一打鳴った。
鍵の音の人が立ち上がった。
「ひと口だけ」と、誰にともなく言った。台所のほうから、使用人の夕方の汁の匂いが流れてきていた。玉葱と、骨と、少しの塩。
鍵の音の人は、台所のほうへ歩いていった。鍵束が鳴って、遠ざかった。
鉄の箱の蓋は、開いたままだった。
トゥルは空いた台を一つ抱えて、日陰の卓の前を通った。台を抱えたまま、歩みを少しだけ遅くした。
煤の匂いが、すぐそこにあった。
箱の中に、厚い紙が一枚、平たく入っている。その裏に、薄い紙が一枚、糸で綴じつけてある。薄い紙の端に、黒い封の蝋。懐の欠片と同じ匂いだった。
洗濯場は、中庭の向こうの低い棟にある。母は、いまもあそこで桶に手を入れているはずだった。ここからは見えない。匂いも、紙の匂いに消されて届かない。
母は、この紙のことを知っているだろうか。トゥルは知らない。訊いたことがない。
名簿があって、名の横に職が書いてある、とクラクは言った。灰色、とは誰も呼ばない。
トゥルは触らなかった。鼻の先を、ほんの少しだけ、その一枚のほうへ向けた。
屋根から、黒い影が降りてきた。
クラクは卓の縁に止まると、嘴で糸を一本切った。薄い紙を一枚くわえ、羽を一度打った。それだけだった。影は裏門の上を越えて、北の空へ上がっていった。
トゥルは台を所定の場所に置いた。それから、手ぶらで裏門を出た。
*
裏門の外の小路は、夕方の光で黄色かった。
白い法衣の女と、すれ違った。胸に、灯火の刺繍がある。大聖堂の修道女だ。夕べの祈りへ向かうところらしかった。
女は、トゥルを見なかった。空を見上げていた。
トゥルも空を見た。上町の屋根の向こう、北の空に、黒い点が一つ、小さくなっていった。
懐の蝋の欠片が、まだそこにあった。もう要らないものになった。トゥルは、それを捨てなかった。




