第4章 洗濯場
水無月二日、晴れ。夜明けの鐘のすぐあとに、アッカは上町のザイデル館の洗濯場で、最初の桶に水を張った。
息子のトゥルは、アッカより先に家を出た。荷運びは、洗濯女より早い。戸口で振り返った息子の懐が、少しだけ膨らんでいた。
アッカは見た。訊かなかった。
十八の灰狼の懐が膨らんでいるのは、たいてい、昼の黒パンか、どこかで拾った何かだ。訊けば息子は答える。答えるしかない。だから、答えさせたくないことは訊かない。谷の母親は、みんなそうして子を育てる。
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洗濯場は、館の裏の低い棟にある。井戸から引いた水が石の溝を流れていて、そこに桶を並べる。朝の水は冷たい。手を入れると、指の骨まで冷えた。
アッカの手の甲は、毛が薄い。洗い物を二十年もすれば、灰狼の手でもそうなる。冷たさは、毛のないところから先に入ってくる。
今日は館じゅうが騒がしかった。
中庭のほうで、台を並べる音がする。木の脚が石畳を擦る。人間の使用人が声を張り上げ、谷の荷運びたちが黙って箱を運ぶ。虫干しの日だ。文書蔵の紙をみな外に出して、風を通す。
風向きが変わるたびに、紙の匂いが洗濯場まで流れてきた。古い紙は、乾いた木の皮と、黴と、ほんの少し鼠の匂いがする。
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隣の桶で、土竜人の婆さんが敷布を揉んでいた。
婆さんの目は、ほとんど見えない。代わりに、手で布の汚れを探す。指の腹で布を撫で、汚れのあるところで指が止まる。止まったところを、灰で揉む。アッカより早く、アッカより確かだった。
「今日は、あの文箱も外に出るんだよ」と婆さんは言った。
「文箱」
「鉄の文箱さ。谷の証文が入ってる」
アッカは手を止めなかった。谷の証文のことは、知っている。谷の者なら誰でも、年寄りから一度は聞かされる。砦の番をする亜人の任と引き換えに、その家族は谷に住み、街に守ってもらえる。そういう紙が、ザイデル家の蔵にある。谷の土地はザイデル家のもので、だから紙もザイデル家が持っている。
「証文の裏に、もう一枚、綴じてあるのは知ってるかい」
「いいえ」
婆さんは敷布を揉む手を止めずに言った。
「砦が要らなくなったら、砦の者は自由になって、人と一緒に住んで、働いて、札を入れられる。そのかわり、街に守ってもらえなくなる。そういう紙が、証文の裏に綴じてあるんだよ」
それから、婆さんは少し声を低くした。若いころ、長老に何度も言わされた言い方だ、と婆さんは言った。
『砦が不要となったとき、亜人の砦常駐の任を解き、自由とする。砦と同様、人とともに住み、働き、票を入れる権利を与える。ただし、街で庇護される権利も失う。』
婆さんは、一字も詰まらなかった。
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アッカの手が、桶の中で止まった。
砦が要らなくなったら。自由になる。そのかわり、守ってもらえなくなる。
谷が、谷でなくなる。
アッカは、谷の外で暮らす灰狼を知らない。上町の館で洗い物をし、下町で荷を運び、日が暮れれば窪地の底へ帰る。帰る所があるから、人間に「灰色」と呼ばれても、黙っていられる。帰る所がなくなったら、どこで黙ればいいのか。
人と一緒に住んで、働いて、札を入れる。それがどういうことか、アッカには想像がつかなかった。想像がつかないものは、怖い。
夫の弟は、北へ上った。砦の番に。夫の家では、そういう者が一代に一人は出る、と夫は言っていた。北で番をする者がいるから、谷の者は谷にいられる。証文とは、そういう紙だ。
北の義弟にとっては、婆さんの言う紙は、自由の紙なのかもしれない。アッカにとっては、帰る窪地を失う紙だ。同じ一枚が、北と谷で、まるで違う重さになる。
アッカは義弟の顔を、もうよく思い出せなかった。匂いだけは覚えている。樫の木の皮と、雪の匂いのする男だった。
「怖い紙さ」と婆さんは言った。「砦の者は欲しがる。谷の者は怖がる。人間は、どっちに転んでも嫌がる」
「どうして、人間が嫌がるの」
「人間にしてみりゃ、灰色に札を入れられるのも嫌だし、任を解かれた灰色に谷に居座られるのも嫌だろうよ。だから、誰も口にしない紙なんだ。口にしないで百年、二百年。紙だけが箱の中で古くなる」
婆さんは敷布を絞った。水が石の溝に落ちて、流れていった。
*
桶の水の面に、泡が浮いては消えた。
灰の混じった泡は、白くならない。灰色のまま、溝の流れに乗って、洗濯場の外へ出ていく。アッカは毎朝それを見ている。見ていて、何かを考えたことはない。
昼が近づくと、日が中庭の壁を越えて、洗濯場の戸口まで差しこんできた。紙の匂いが、また強くなった。日に当たった古い紙は、焼きたての薄いパンのような匂いがする。
婆さんが、当主の下着を一枚、指で撫でた。
「旦那様は、また葡萄酒をこぼしたね」
アッカは笑いそうになって、こらえた。婆さんの目には、染みは見えていない。指だけで、葡萄酒の染みと肉汁の染みを分ける。
「赤いほうの葡萄酒だよ。南の、高いやつ」
「どうして分かるの」
「渋いのさ。指が」
昼の鐘が鳴った。洗濯女たちは桶から手を上げ、前掛けで手を拭いた。
アッカは、中庭のほうを一度だけ見た。台が並び、紙が並び、谷の荷運びたちが、その間を黙って行き来している。息子の姿は、ここからは見えなかった。
懐の膨らみと、婆さんの話を、アッカはまだ一つに結ばなかった。結ぶ糸を、まだ持っていなかった。




