第3章 蝋の欠片
水無月一日の夕方、トゥルは下の谷の路地で、妹のミルに尻尾をつかまれていた。
「兄ちゃん、明日、上町に行くの」
「行く。ザイデルの館の虫干しだ。台と箱を運ぶ」
「お金、いくら」
「半日で、銀貨三枚」
ミルは指を折ろうとして、三本で足りることに気づいてやめた。代わりに、尻尾をもう一度引っぱった。灰狼の子は、つかまるところがあれば何でもつかむ。
トゥルは十八になる。耳の先だけが白い。谷の灰狼の中では、それで覚えてもらえる。人間には覚えてもらえない。人間は、灰狼の耳の先など見ない。上町の館で日雇いをすると、呼ばれるのはいつも「灰色」だ。今日の灰色と、昨日の灰色の区別は、向こうにはない。
トゥルのほうは、人間を匂いで覚える。墨の匂い、油の匂い、鍵束の鉄の匂い。顔を覚えるより、そのほうがずっと早い。
今日も昼まで、上町の商家で樽を運んだ。番頭は「灰色、そこの樽」「灰色、次」としか言わなかった。昼に駄賃を受け取るとき、番頭はトゥルの顔ではなく、トゥルの手のひらを見ていた。銀貨を落とす場所を見ていたのだ。
腹は立たない。腹を立てても、銀貨は増えない。父がそう言っていた。父は三年前の冬に、咳をこじらせて死んだ。それからは、トゥルが谷の家の荷運びになった。
父には弟がいた。トゥルが生まれる前に、北へ上ったと聞いている。峠の砦の番に。谷から北へ上る者は、ときどきいる。上った者が谷へ帰ってきた話は、ない。母は、それを悲しい話としては語らなかった。北へ上った、と言うだけだった。
*
谷の夕方は、煙の匂いがする。
窪地の底の家々から、細い煙が何本も上がっていた。獣脂の灯がともりはじめる刻だ。脂の焦げる匂いと、煮える豆の匂いが、路地に低く溜まる。上町から下りてくる風は、それを押し流すほど強くない。
井戸の縁に、黒いものが降りてきた。
鴉人だった。黒い羽を半分だけ畳み、首から紐を下げている。紐の先には、木の割符が何本も束になっていた。
谷の子らが、遠巻きに集まってきた。鴉人は首を傾けて、子らを数えた。
「三、六。群れだ」
「わたし、一人だよ」とミルが言った。
「群れの中の一だ」と鴉人は言った。ミルは納得しなかった。
鴉人はトゥルのほうを向いた。
「お前が、明日あの館へ行く灰色か」
「そうだ」
「クラクだ。北から来た。今年の割符を届けに」
鴉人は名を名乗った。トゥルは少し驚いた。人間に名乗る鴉人を、トゥルは見たことがない。谷の者に名乗るのは、当たり前だ。だが、北の鴉人の名乗り方は、谷のそれよりずっと堂々としていた。
*
クラクは首の袋から、布の包みを出した。
開くと、親指の先ほどの、黒い塊があった。蝋だ。黒ずんでいる。トゥルは鼻を近づけた。
煤の匂いがした。篝火の煤だ。それに古い蜂の巣の匂いと、ほんの少し、松脂の匂い。
「砦の長老の言いつけだ。この匂いを、紙の山の中から探してくれ」
「紙の山」
「明日、館の中庭に紙が並ぶ。その中に、この蝋で封をした紙が一枚ある。お前の鼻なら分かる。俺の鼻は、鳥の鼻だ」
トゥルは蝋の欠片を見た。それから、クラクを見た。
「何の紙だ」
「訊かれたら答える」とクラクは言った。「砦の長老が、取り戻してこいと言った紙だ。それ以上は、俺も知らない」
嘘ではない、とトゥルは思った。亜人は偽りを言えない。言えないから、言いたくないことは言わずにすませる。訊かれれば答えるしかないから、訊かれない所を通る。クラクは、訊かれた分だけを答えた。
「館の人間に訊かれたら、どうする」
「訊かれたら答える」とクラクは言った。「だから、訊かれない所を通る。俺は堂々と門から入る。割符の返しを受け取りに来た使いだ。誰も、使いに何を探しているかは訊かない」
*
井戸の水の匂いが、路地に上がってきた。夕方の井戸は、昼より冷たい匂いがする。石の匂いと、苔の匂い。谷で生まれた者なら、目をつぶってもどの井戸か分かる。
トゥルは、北のことを訊いた。
「砦は、どんな所だ」
「高い所だ」とクラクは言った。「峠を向いた見張り台で、夜ごと篝火を焚く。冬は、山から下りてくる獣を、糧の村の手前で追い返す。見張りがいて、伝令がいて、畑を耕す者がいる」
「灰狼もいるのか」
「いる。伝令だ。足が速い」
クラクは割符の束を揺すった。
「砦では、名で呼ばれる。見張りのクラク、伝令の誰それ。名簿があって、名の横に職が書いてある。灰色、とは誰も呼ばない」
トゥルは黙った。名の横に職。灰色、とは誰も呼ばない。
北へ上った叔父も、そこでは名で呼ばれているのだろうか。トゥルは叔父の名を知らない。母は、訊かれなければ言わない。トゥルは、訊いたことがなかった。
谷の路地で、ミルが兄の尻尾を引いた。トゥルはそれに気づかなかった。
「やってくれるか」とクラクが訊いた。
「やる」とトゥルは言った。
クラクはうなずき、羽を広げた。井戸の縁を蹴って、上町のほうへ飛んでいった。黒い影は、獣脂の灯の煙の中に紛れて、すぐに見えなくなった。
*
家に帰ると、母のアッカが豆を煮ていた。
「遅かったね」
「井戸で、話をしてた」
アッカはそれ以上訊かなかった。母は、いつもそうだった。谷の大人は、みんなそうだ。訊かなければ、言わなくてすむ。
トゥルは蝋の欠片を、布に包んだまま懐に入れた。懐が、少しだけ重くなった。
母には言わなかった。訊かれなかった。




