第2章 裁き方の朝
灰壁暦二一二年、水無月一日。朝の鐘が八つ鳴ったとき、ゲオルクは参事会館の一階、裁き方の部屋で墨をすっていた。
硯の上で墨が回る。回るたびに、少しずつ濃くなる。濃さは、目で見るより鼻で分かった。湿った曇りの朝は、墨の匂いが部屋の底に溜まる。
ゲオルクは裁き方の書記になって十九年になる。左の袖口を紐で留め、右の中指には墨だこがある。字を書く者の手だ。字を書く以外のことには、あまり使わない手だった。
奥の机で、裁き役のコンラートが綴りを撫でていた。
麻の綴じ紐で綴じた、まだ薄い一冊だ。表紙には『例』の一字。ゲオルクが書いた字だった。
「第一冊だ」とコンラートは言った。指が太いので、紙をめくる手つきが慎重になる。「裁きを、裁きのたびに忘れていては、街がもたん。同じことには、同じ裁きを」
「はい」
「だから、書いておけ」
コンラートの口癖だった。書いておけ。ゲオルクは書く。ただし、書くのは裁きに要ることだけだ。要らないことは書かない。覚えもしない。書記の仕事の半分は、書かないことだとゲオルクは思っている。
*
十の鐘のころ、小さな裁きが一つあった。
下町のパン屋が二軒、竈の煙のことで揉めていた。片方の煙が、もう片方の干し場に流れる。干したパンが燻される。燻されたパンは、燻された分だけ安く売れる。
ゲオルクは裁きの帳面を開いた。その場で書く控えの帳面だ。裁きの席で言われたことを、言われた順に書く。
「あいつの竈は、親父の代から曲がってるんです」と片方が言った。「心根と同じで」
「心根のほうは書くな」とコンラートが言った。
ゲオルクは、書きかけた『心』の字の上に線を一本引いた。線の下の字は、そのまま読める。帳面はそれでいい。帳面は控えだ。
コンラートは、煙突を二尺高くせよ、費えは半分ずつ、と言った。二人とも不満そうに帰っていった。不満が半分ずつなら、裁きとしては悪くない、とゲオルクは思った。
夕方には、この裁きを正本に清書する。線を引いた字は写さない。裁き役が目を通し、紙を綴じ、綴じ目に割り印を押す。正本に残るのは、確かに決まったことだけだ。帳面のほうは、何年か使えば削って書き直す。
*
廊下の向こうで、声がした。参事たちが、二階の議場へ上がる前に立ち話をしている。戸が半分開いていて、声はそのまま部屋に入ってきた。
「峠の向こうから何も来なくなって、二百年だぞ」
「砦はもう要らないのではないか。灰色どもに、いつまで麦をやる」
「北の麦の手当てを減らせば、壁の修繕に回せる」
「その話は、議場でやれ」
笑い声がして、足音が階段を上っていった。
ゲオルクは筆を持ったまま、声が遠くなるのを聞いていた。北の砦のことは、ゲオルクも知っている。峠の手前に古い砦があって、亜人たちが番をしている。北の村が麦を送り、街がその分を手当てする。手当ての額は、毎年ゲオルクの手元の帳面を通る。
聞いた。だが、書かなかった。廊下の立ち話は、裁きではない。
窓の外は白い。曇りの白さは、雨の前の白さとは違う。紙の白に近かった。
*
昼の鐘のあとで、娘のリーゼルが弁当を届けに来た。
十二になる。袖口に、今日も墨が付いている。手習い所の帰りに寄ったのだ。布に包んだ黒パンと、チーズのかけらを、ゲオルクの机の端に置いた。
「父さん、それ、何を書いてるの」
「先月の裁きの写しだ」
リーゼルはゲオルクの肩越しに紙を覗いた。読めない字は、まだ多い。だが字の形は、いつも誰より先に見る子だった。
それから自分の石板を出して、父の字を真似て書きはじめた。『裁』の字の終わりで、筆の代わりの石筆が、ひょいと上に跳ねた。
「父さんの字は、全部、最後に手を振ってるみたい」
「手は振っていない」
「振ってるよ。ほら、ここも、ここも。さよならって」
ゲオルクは自分の紙を見た。言われてみれば、どの字も終わりで小さく跳ね上がっている。十九年、誰にも言われなかった。コンラートも言わなかった。書いてあることが正しければ、字の終わりがどちらを向いていても、裁きは変わらない。
ゲオルクは娘の字を直さなかった。直す理由がなかった。
奥の机で、コンラートが黒パンの匂いに顔を上げた。
「書いておけ」とコンラートは言った。「昼飯、と」
リーゼルが吹き出した。ゲオルクは書かなかった。
綴じ紐の麻には、小さな毛羽が立っている。紙をめくるたびに、毛羽が一本ずつ光った。ゲオルクはそれを見るのが嫌いではなかった。綴じられた紙は、もうどこへも行かない。
*
昼の鐘から半刻ほどして、門番の使いが来た。
「北の使いが、今年の割符を届けに来ました。鴉です」
「いつもの鴉か」とコンラートが訊いた。
「さあ。鴉の顔は、見分けがつきませんので」
使いは悪びれずに言った。誰も笑わなかった。誰にとっても、本当のことだったからだ。
「割符は勘定方へ回しました。鴉は、上町のザイデル様のお屋敷にも寄るそうです。返しを受け取りに。明日は、あちらの虫干しですから」
ザイデル家の虫干しは、上町では毎年の行事だった。梅雨の前の晴れた日に、文書蔵の紙をみな中庭に出して風を通す。古い家ほど紙が多い。ザイデル家は、上町でいちばん古い家の一つだった。
「明日は晴れるか」とコンラートが窓を見た。
「晴れるでしょう」とゲオルクは言った。
使いが帰ったあと、ゲオルクは写しの続きに戻った。墨は少し乾きかけていた。水を一滴落として、また回した。
廊下の声は、もう聞こえなかった。議場の上で、木札が壺に落ちる音が、遠くでいくつか鳴った。
ゲオルクは、廊下の声を一字も書かなかった。書く理由がなかった。




