第1章 写し
本作はシリーズものです。第一作「夜啼きの涙」からお読みいただけますとよりいっそうお楽しみいただけます。
第一作『夜啼きの涙』:https://ncode.syosetu.com/n2595mv/
灰壁暦三一三年、水無月十日。昼の鐘が鳴りやむころ、ブリギッテは雨の手習い所で、長机の端に薬箱を置いた。
子らはもう帰っていた。机の上には、石板と、使い減りした筆が並んでいる。窓の外は朝から同じ雨で、屋根の樋が、ずっと同じ調子で鳴っていた。
ブリギッテは袖をまくり直した。背が高いので、手習い所の机はどれも低い。子どものころは、この机に顎が届かなかった。いまは膝がぶつかる。
アガタ先生は、窓ぎわの席で子らの石板を拭いていた。白い手袋の指先だけが、灰色の石の上で動いている。
「先生。お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。南の村は、もう麦が黄色くなりかけていましたよ」
先生は皐月の終わりから、南の村々へ施療に出ていた。帰ってきたのは、昨日の夕方だ。ブリギッテは北から戻った晩に、明日持っていこうと決めた。その明日が、二十日あまり延びた。
*
先月、ブリギッテは冒険者組合の一行と、北の古い砦まで行った。赤い棘草の荒れ野を越え、羊の村から峠道を登った。
砦には、人が住んでいた。北門から出された亜人たちと、その子らだ。
北門から出された亜人は、二度と戻らない。手習い所でも、そう教わる。貴人の館で起きた罪に関わった亜人は、夜明けの開門とともに北門から出される。灰壁の掟だ。ブリギッテはそれを、出された者がどこかで死ぬ話だと思っていた。
砦の書庫は、塔の下の冷たい部屋だった。鴉人の長老が、油布にくるんだ紙の束を出してくれた。その中の、いちばん古い一枚を、ブリギッテは写させてもらった。
ブリギッテは薬箱の蓋を開けた。包帯と、薬草の包みと、毛抜き。その下に、四つに畳んだ紙がある。紙の上には、赤い棘草の実が一つ、まだ乗っていた。
紙を広げる。写したのは一行だけだ。
『この者らを、北の砦へ。』
「日付は、灰壁暦二一二年でした。下のほうは破れていて、読めたのはこれだけです。いちばん古い紙だと、鴉の長老様が」
先生は手袋を外した。素手の指の腹で、写しの字をなぞる。一字ずつ、終わりのところで指が止まった。
字の終わりが、どれも小さく跳ね上がっている。ブリギッテは写すとき、その癖まで写した。自分のものではない癖を写すのは、思っていたよりずっと難しかった。
先生は紙を窓の明かりにかざした。雨の光は白くて薄い。先生は長いこと、黙ってそれを見ていた。
ブリギッテは黙っていられなかった。
「北の書庫は、とても冷えていて、紙が油布にくるまっていて、名簿があって、職の欄が一つも空いていなくて、それで、あの、いちばん古いのが、これで」
「ゆっくりでいいですよ」と先生は言った。
ブリギッテは息を吸い直した。
「長老様は、写してもよいですか、と訊いたら、訊かれたら、よいと言う、とおっしゃいました」
「訊かれたら」と先生は繰り返した。
「はい。砦の方は、みんなそうでした。訊かれたことには答えて、訊かれないことは言わないんです。道案内のヴィルマさんも、ずっとそうでした。砦に誰がいるか、知っていたのに、訊かれるまで言わなかったんです」
先生は少しだけ笑った。笑ったように、ブリギッテには見えた。
「この街にも、そういう人はたくさんいますよ」
ブリギッテは考えた。先生のことかしら、と思ったが、それは訊かないことにした。
*
「この字を見たとき、先生のことを思い出しました。先生がいつもおっしゃる、終わりで息を止めなさい、の字だって」
「そうですね」
先生はそれだけ言った。指は、まだ最後の『へ』の上にあった。
ブリギッテは手習い所で、何度その言葉を聞いたか分からない。字の終わりで、筆を浮かせるな。止めて、息を止めて、それから離しなさい。言われるたびに息を止めすぎて、むせたこともある。
「先生は、誰に教わったのですか。その、終わりで息を止めなさい、を」
訊いてから、ブリギッテは少しだけ後悔した。先生は嘘をおっしゃらない。訊かれたことには答える。だから、訊くことには気をつけなさい、と教わったのも、この机の前だった。
「リーゼルという修道女です」と先生は言った。「わたしがここに来たとき、もうお年でした」
それ以上は、なかった。ブリギッテも、それ以上は訊かなかった。
窓の外を、子どもが二人、走っていった。首から木の箱を下げている。夏の谷の祭りの、銅貨箱だ。雨の中で箱が揺れて、中の銅貨が小さく鳴った。二人は、水たまりを一つも避けなかった。
*
先生が写しを畳もうとしたとき、紙の上の実が転がった。棘が手袋に絡みついて、白い布にぶら下がった。
「あっ」ブリギッテは声を上げた。「お土産です。それも」
「北の、ですか」
「北街道の、です。荒れ野の。袖について、取っても取っても付いてきたので、一つだけ持って帰りました」
先生は手袋から実を外そうとして、外れないのを確かめて、それから外すのをやめた。手袋ごと、机の端に置いた。
長机には、墨の染みがいくつも残っている。ブリギッテが子どものころに付けた染みも、たぶんどこかにある。百年分の子らの袖が、同じ机の上を擦っていった。染みは、誰の字も覚えていない。
「この写しを、少しお借りしてもよいですか」
「はい。先生にお見せするために、持って帰ったので」
先生は写しを畳み、法衣の胸にしまった。それから、壁に掛けてあった傘を取った。
「少し、出かけてきます」
どこへ、とは言わなかった。ブリギッテは訊かなかった。訊けば、先生は答えるしかない。先生が自分から何も言わないときは、たいてい、言わないことに理由がある。
*
ブリギッテは石板の残りを拭きながら、窓から外を見た。
雨の坂を、黒い傘が一つ上っていく。急がない足どりだった。一度も立ち止まらなかった。
下町のほうではない。大聖堂のほうでもない。
先生の傘が、雨の坂を上っていった。上町のほうへ。




