今度じゃなくて
午後七時十二分。
修一はスマートフォンを机の上に置いた。
娘に送ったメッセージ。
【今週、飯でも食わないか】
既読はついている。
返事はない。
修一はパソコンを見る。
三十秒。
スマートフォンを見る。
パソコン。
スマートフォン。
「高橋さん」
「何?」
「さっきからスマホ見すぎじゃないですか」
田中だった。
「見てないよ」
「見てますよ」
「仕事してる」
「七時過ぎてますけど」
「お前もいるだろ」
「僕は帰るタイミング逃しました」
田中が社内を見回す。
まだ六人残っている。
黒田もいる。
山本もいる。
小林もいる。
大森社長までいる。
世界が終わるまで、あと六日。
なぜ残業しているのか、誰にも分からなかった。
「じゃあ、俺帰るわ」
黒田が立ち上がった。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
黒田は鞄を持つ。
「明日は九時だからな」
田中が顔を上げる。
「来るんですか?」
「何が」
「明日」
「来るよ」
「なんでです?」
「お前は来ないのか?」
田中が少し考えた。
「……多分来ます」
「じゃあ一緒だろ」
黒田は帰っていった。
田中が修一を見る。
「何なんですかね、この会社」
「知らん」
*
午後七時二十六分。
修一は電車に乗った。
朝より人は少ない。
車内モニターにはニュースが流れている。
【各地の高速道路で渋滞】
【国内線・国際線とも予約殺到】
【家族や友人に会うため移動する人が増加】
世界が終わると分かって、人は動き始めていた。
修一のスマートフォンが震えた。
彩花。
修一はすぐに開く。
【いいよ】
それだけだった。
思わず口元が緩んだ。
【いつがいい?】
送る。
すぐ返ってきた。
【明日】
修一は少し驚いた。
もっと先を言われると思っていた。
【何食べたい?】
【焼肉】
「……マジか」
声に出た。
向かいに座っていた男がこちらを見る。
修一はスマートフォンに目を戻した。
【俺も焼肉食いたかった】
【じゃあ焼肉】
【店探す】
【うん】
会話が終わる。
たったそれだけ。
それでも修一は、しばらく画面を閉じなかった。
*
翌朝。
世界が終わるまで、あと五日。
修一はいつもより少し早く会社に着いた。
驚いたことに、昨日より人が多かった。
「増えてない?」
修一が聞く。
山本が人数を数える。
「十五人います」
「昨日十一人だよな」
「はい」
「なんで増えるんだよ」
昨日来なかった社員が笑う。
「家にいてもやることなくて」
「家族は?」
「いますよ」
「じゃあ家族といればいいじゃん」
「昨日ずっと一緒にいたんですけど」
「うん」
「夕方くらいから全員無言になりました」
「……なるほど」
分からなくもなかった。
午前九時。
黒田が立つ。
「朝礼始めるぞ」
誰も笑わなかった。
昨日一度やってしまったせいで、もう普通になっていた。
「連絡事項ある人」
田中が手を挙げる。
「はい」
「何?」
「朝礼、あと五回しかないですね」
黒田が黙る。
誰も何も言わない。
「……そういうこと言うなよ」
「すみません」
少しだけ空気が重くなった。
黒田が咳払いする。
「他に」
「ないです」
「じゃあ今日もよろしく」
「よろしくお願いします」
声が揃った。
あと五回。
修一はその言葉が妙に残った。
*
午前十時十八分。
佐々木が出社した。
「おはようございます」
全員の視線が左腕に集まる。
銀色の時計。
田中が駆け寄る。
「見せてください!」
「いいですよ」
「重いですか?」
「結構重い」
「百七十八万円って重いんですね」
「値段の重さじゃないです」
修一も見る。
「昨日、寿司どうだった?」
「うまかったです」
「いくら?」
「三万二千円」
「一人で?」
「一人です」
「楽しかった?」
佐々木が少し考える。
「まあまあです」
「昨日と同じじゃねえか」
「今日は温泉予約しました」
「どこ?」
「箱根」
「誰と?」
「一人です」
「お前、友達いないの?」
「いますよ!」
「じゃあ誘えよ」
「みんな家族といるんですよ」
「ああ」
それを言われると何も言えない。
佐々木は自分の席に座った。
「高橋さん」
「何?」
「六百八十万って、意外と使うの大変ですね」
「知らんよ」
*
午前十一時。
修一のスマートフォンが震えた。
知らない番号。
「はい、高橋です」
『……修一?』
声で分かった。
「恵?」
『うん』
一年近く別居している妻だった。
「どうした?」
『彩花から聞いた』
「何を?」
『今日、二人でご飯食べるんだって?』
「ああ」
修一は少し身構えた。
『焼肉?』
「うん」
『そう』
沈黙。
修一は何を言えばいいのか分からない。
恵が先に言った。
『私とは会わなくていいの?』
修一は言葉に詰まった。
「いや」
『うん』
「会いたいよ」
言ってから、自分でも驚いた。
恵も少し黙った。
『……じゃあ、私も行っていい?』
「もちろん」
『分かった』
「七時半だから」
『うん』
電話が切れた。
修一はしばらくスマートフォンを見ていた。
「高橋さん」
田中。
「何?」
「顔、変ですよ」
「うるさい」
*
午後二時。
仕事がなくなった。
正確には、仕事はある。
ただ、取引先からの連絡がほとんど来なくなった。
昨日まで普通に動いていた会社が、少しずつ止まり始めている。
「暇ですね」
田中が言う。
「仕事探せ」
「世界終わるのに?」
「昨日辞めたいって言ってた奴が、なんで今日もいるんだよ」
「まだ辞めてないので」
「辞めれば?」
「それはそれで怖いです」
「何が」
「無職になるのが」
「五日だけだろ」
「五日でも嫌です」
修一は笑った。
黒田がこちらを見る。
「高橋」
「はい」
「今日、もう帰っていいぞ」
「え?」
「仕事ないだろ」
「まあ」
「娘と飯行くんだろ?」
「なんで知ってるんですか」
「田中から聞いた」
修一が田中を見る。
「すみません」
「早いな」
「何がです?」
「情報が」
黒田が言う。
「あと五日しかないんだ。時間無駄にするな」
修一は少し意外だった。
「部長は?」
「俺?」
「帰らないんですか」
「俺は仕事する」
「仕事ないですよ」
「探す」
「何でですか」
黒田は少し考えた。
「家帰って、妻と二人で世界が終わるの待つのも嫌だろ」
修一は何も言えなかった。
「仕事してれば、普通の日みたいだろ」
黒田はパソコンに目を戻した。
*
午後三時。
修一は会社を出た。
平日の昼間。
街には思ったより人がいた。
公園。
ベンチに座る老夫婦。
芝生に寝転ぶ若い男女。
子供とキャッチボールする父親。
何か特別なことをしている人はいない。
ただ一緒にいる。
修一は歩きながら思った。
最後にやりたいこと。
昨日まで、それはもっと大きなものだと思っていた。
海外旅行。
高級料理。
やったことのない体験。
でも本当に最後なら。
いつもの人と、いつものことをする方がいいのかもしれない。
修一はスマートフォンを取り出した。
昨日、彩花とのやり取りを終えたあと、すぐに予約した店を確認する。
昔、家族三人でよく行った焼肉屋。
午後七時半。
三人。
予約した時には、恵も来るとは思っていなかった。
それでもなぜか、二人ではなく三人で予約していた。
修一は予約画面の「3名」という文字を、しばらく見つめた。
*
午後七時二十六分。
修一は店の前に立っていた。
懐かしい赤い看板。
ほとんど変わっていない。
「お父さん」
声がした。
振り返る。
彩花だった。
「久しぶり」
「……久しぶり」
半年ぶりに会う娘は、少し大人びて見えた。
「髪伸びた?」
「半年会ってないからね」
「そうだな」
「お母さんは?」
「まだ来てない」
「珍しいね」
恵は時間に遅れる人ではない。
七時二十八分。
七時三十分。
七時三十五分。
「電話した?」
「出ない」
「メッセージは?」
「既読つかない」
修一は少し不安になった。
世界が終わるまで、あと五日。
こんな時だからこそ、嫌な想像が浮かぶ。
七時四十一分。
スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
「はい」
『高橋修一さんのお電話でしょうか』
「はい」
『こちら、警視庁の――』
修一の表情が固まった。




