三人分
修一はスマートフォンを握り直した。
「はい」
『こちら、警視庁の者ですが』
隣にいた彩花が修一を見る。
『高橋恵さんのご主人で間違いありませんか』
「はい。妻に何かあったんですか?」
『ご安心ください。奥様にお怪我はありません』
その言葉で、修一はようやく息を吐いた。
「何があったんですか?」
『駅で鞄を盗まれまして』
「鞄?」
『財布と携帯電話、それからご自宅の鍵も入っていたそうです』
「本人は?」
『今、こちらの交番にいらっしゃいます』
修一は場所を聞いた。
「分かりました。すぐ行きます」
電話を切る。
「お母さん?」
「大丈夫。鞄盗まれたって」
「何それ」
「怪我はない」
彩花も息を吐いた。
「どこの交番?」
「駅前」
「行こう」
二人は焼肉屋を離れた。
*
交番までは歩いて十分ほどだった。
中に入ると、恵が椅子に座っていた。
「お母さん!」
彩花が駆け寄る。
「彩花」
「大丈夫?」
「大丈夫。ごめんね」
修一は少し離れたところに立った。
恵がこちらを見る。
「修一」
「怪我ない?」
「うん」
「よかった」
それだけだった。
一年ぶりにまともに顔を合わせた妻との最初の会話としては、ずいぶん普通だった。
警察官から説明を聞く。
駅のホームへ向かう途中、人混みの中で鞄を盗まれたらしい。
世界が終わるまであと五日。
それでも、鞄を盗む人間はいる。
「連絡先が分からなくて」
恵が言った。
「携帯もないし」
「彩花の番号は?」
「覚えてない」
「俺のは?」
「覚えてた」
修一は少し驚いた。
「まだ?」
「番号変えてないでしょ」
「変えてないけど」
「昔から同じだから」
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
*
「どうする?」
交番を出て、修一が聞いた。
「何が?」
「焼肉」
彩花が即答した。
「行く」
「お母さんは?」
恵が時計を見る。
「まだ大丈夫?」
「予約は七時半だけど、電話すれば」
「じゃあ行こう」
三人で歩き出した。
修一は店に電話した。
事情を簡単に話す。
『大丈夫ですよ。お待ちしてます』
「すみません」
電話を切る。
前を彩花が歩く。
隣を恵が歩いている。
三人で歩くのは、いつ以来だろう。
修一は思い出そうとした。
やめた。
*
「いらっしゃいませ」
店に入る。
昔と同じ匂いがした。
肉を焼く匂い。
煙。
タレ。
案内された席も、昔よく座った場所に近かった。
彩花が奥。
恵が向かい。
修一がその隣。
「何頼む?」
修一がメニューを開く。
「タン」
彩花。
「カルビ」
恵。
「じゃあ両方」
店員を呼ぶ。
「タン三人前と、カルビ三人前」
修一は言ってから、少しだけ止まった。
三人前。
昔は何度も言った言葉だった。
それが妙に懐かしかった。
*
「お父さん、それ焼きすぎ」
彩花が言った。
「まだ赤いだろ」
「タンはそれくらいでいいの」
「生だぞ」
「生じゃない」
「ほら、焦げる」
恵がトングで肉を取る。
「修一、昔から焼きすぎるのよ」
「腹壊したくないだろ」
彩花が笑う。
「あと五日なのに?」
「五日あるからだよ」
「確かに」
恵も笑った。
修一は二人を見る。
何年ぶりだろう。
こんなふうに三人で笑ったのは。
世界が終わると分かってから、初めて時間がゆっくり流れているように感じた。
*
「大学どう?」
修一が聞く。
「普通」
「普通って」
「普通は普通」
「友達は?」
「いるよ」
「彼氏は?」
「それ聞く?」
「父親だから」
「半年連絡してなかった父親が?」
「……すみません」
恵が笑う。
「仕事は?」
今度は彩花が聞いた。
「普通」
「お父さんも普通じゃん」
「会社は行ってる」
「まだ?」
「まだ」
「なんで?」
「それ、みんなに聞かれる」
「答えは?」
「分からない」
「変なの」
「自分でもそう思う」
彩花が肉を網に置いた。
「でも、お父さんっぽい」
「そう?」
「うん」
それが褒め言葉なのかどうか、修一には分からなかった。
*
彩花がトイレへ立った。
修一と恵だけになる。
急に静かになった。
「……久しぶりだな」
修一が言う。
「そうね」
「一年くらい?」
「十一か月」
「覚えてるんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
修一は水を飲んだ。
「俺のこと、嫌いになった?」
聞いてから、もっと別の聞き方があった気がした。
恵は少し考えた。
「嫌いだったら、もっと簡単だった」
修一は黙る。
「嫌いなら離婚して終わりでしょ」
「じゃあ、何で」
「疲れたの」
「俺に?」
「待つことに」
修一は恵を見る。
「修一って、何でも『あとで』って言うじゃない」
「……そうかな」
「そうだよ」
「旅行行こうって言っても、今度。家のこと話そうって言っても、あとで。彩花のことも、仕事が落ち着いたら」
恵は網の上の肉を見る。
「ずっと待ってたら、そのうち何も決めないまま人生終わるんじゃないかって思った」
修一は何も言えなかった。
五日後。
本当に人生が終わる。
「ごめん」
「今さら謝られても」
「うん」
「でも」
恵が修一を見る。
「今さらだから、話せることもあるのかもね」
修一は頷いた。
「明日から――」
言いかけて止める。
恵が見る。
「何?」
「違うな」
修一は少し笑った。
「今日から、ちゃんと話そう」
恵も少しだけ笑った。
「うん」
*
彩花が戻ってきた。
「何話してたの?」
「別に」
恵が言う。
「怪しい」
「何も怪しくない」
「じゃあ追加頼もう」
彩花がメニューを見る。
「上カルビ」
「高いぞ」
「あと五日だよ?」
「それ便利だな」
「何でも使えるよ」
彩花が店員を呼ぶ。
「上カルビ三人前ください」
修一は笑った。
また三人前だった。
*
店を出たのは午後九時過ぎだった。
駅まで三人で歩く。
彩花が少し前を歩いている。
恵が言った。
「明日、また三人でご飯食べる?」
修一は少し驚いた。
「いいの?」
「あと五日でしょ」
「そうだな」
「彩花もいるし」
「うん」
修一は答えた。
「食べよう」
明日。
今度ではなく。
そのうちでもなく。
明日。
*
午後十時十八分。
家に着いた修一は、スーツを脱いだ。
スマートフォンが震える。
会社のグループチャットだった。
田中。
【どうせあと五日なので言います】
嫌な予感がした。
続けてメッセージ。
【僕、この会社に入って後悔しています】
「おい」
修一は思わず声に出した。
既読が増えていく。
五。
八。
十一。
そして黒田。
【田中】
一分。
【明日話そう】
田中からすぐに返信。
【高橋さん】
【今のメッセージって消せますか】
修一はベッドに座った。
【もう全員読んでる】
既読。
しばらく返事はなかった。
世界が終わるまで、あと五日。
明日も会社は、通常営業だった。




