それは、ある晴れた夜の朝のこと。
空に太陽と月が浮かんでいた。詩的な表現では談じてなく、ただ有り体に状況を説明しただけだ。一気に朝の様子を呈した世界に、どうにも体内時計が驚いている。
だが、そんなことがどうでもよくなる存在が目の前にいた。彼はゆっくりと瞬きをして、青い瞳を俺達に向けた。
「……君達は、何をしにここに来たんだ?」
呟かれた言葉には憎悪や疑いの感情は含まれて居らず、ひたすらに空っぽだった。一つ一つ言葉を慎重に選びながら、ここに来た目的を端的に述べた。
「『郷愁』のスピカ・レトリックを探している」
「……スピカを探しに来たのか……大方、テラロッサの勧めだろう?」
男が黒い眉毛を動かした。音の無い世界に、何処からかポチャン、という水音が聞こえたような気がする。男は俺の言葉を聞いて、鼻から深く息をした。それと共に男は眼を瞑り、ゆっくりと開いた。
「……帰ってくれ。……話すことなんてない」
「……不滅から直々に厭世を探しに南に行けと言われたんだが」
「……いつも通り無駄なことを……何百年経っても思考停止のカカシのままか。頭の中身まで円環でループしているみたいだな」
テラロッサの名前をもう一度使って聞くと、目の前の男は面倒くさそうに首を横に振って彼女を貶す言葉を吐いた。先程から感じていた拒絶感と達観した様子はまださらりと飲み込めた。だが、恐らく同族であるテラロッサの事を貶める男に躊躇は無かった。
それが堪らなく気に入らない。あの笑顔が、あの言葉が……無駄だって?テラロッサから気難しい性格と聞いていなければ舌打ちを大きく鳴らしていたかもしれない。それを飲み込んで男に問う。
「あなたは……『厭世』なんだろ?」
「……」
男は深くため息を吐いて俺とメラルテンバルを見た。そして、ああ、そうだよと滑らかに肯定した。
「僕は『厭世』。厭世のアドニス・レトリック……はぁ、これで満足か?」
【貴方はワールドボス『厭世』のアドニス・レトリックにエンカウントしました】
システムが通知を鳴らすのと同時に、『厭世』――アドニスが面倒そうに首を横に振った。その動きに合わせて彼の足元で波紋が揺れる。コートのポケットに手を突っ込んだまま、アドニスが俺たちに声をかけてきた。
「……君たちの目的はわかる。だが、やめておいた方がいい。……あんな不具合の塊を世界に解き放つのは正気とは言えない」
「……御託は良いから彼女の居場所を教えてくれよ。俺はあなたの皮肉を聞きにここまで来た訳じゃないんだ」
「……僕は君と話すことなんて無いんだが。勝手に話を進めようとしないでくれるか?」
先程の空虚な様子から打って変わって皮肉と敵意の混じったアドニスの言葉に、苛立ちが募る。だが、テラロッサは言っていた。郷愁を……厭世を救えと。そしてこうも言った。厭世を救えるのは俺だけだと。
正直、俺はアドニスに良い印象を抱いていない。全てを達観した態度、冷めた表情に暗い瞳……そのどれもが俺の中で悪印象だ。
テラロッサのような人格者を期待していたらしいメラルテンバルは、驚きのあまり固まっている。
「更に言えば、君には理由も意義も意味も無いだろう?」
「……どういうことだ?」
「僕には分からないんだよ。態々スピカのような存在を救おうとする君の行動理由が。全くもって理解できない。だってそうだろう?君には殆ど得は無いだろうし、何よりこれほどまで苦労する意味があるとは到底思えない」
「……」
「それとも英雄気取りか? 自分が世界の中心に立っている気になって、薄っぺらで虚しい責任感と正義感に酔っているのか? どちらにしても、僕からすれば君の行動は意味不明の極みだ」
……ああ、なんだこいつは。ひねくれているにも程があるだろう。彼が救うべき厭世で、スピカの情報を持っていると知らなかったら間違いなく悪態をついていたかもしれない。
冷淡で厭世的な言葉を吐くアドニスの目を見返して、出来る限り冷静に言葉を返す。
「理解できてるじゃないか。俺は英雄気取りに、お前の言う『薄っぺらで虚しい責任感と正義感』でスピカを助ける。誰かに……お前に後ろ指を指されても、それは誰かを助けない理由にはならない」
「……浅慮の極みだ。視野が狭すぎる。君の独善的な行動で世界が滅びても、英雄気取りの愚行で誰かが傷ついても、それが誰かを助けない理由にはならないんだね」
本当に、『善』に酔った愚か者だよ。アドニスは俺の目を見つめながら、俺が知る中で最も冷たく、悲しく……空っぽに笑った。思わず口をつぐんでしまう程の『無』があった。
「君は、自分のことをスーパーヒーローだとでも思っているのかな?そうでなければ、あるいは英雄譚の主人公か?本気になれば全てを救えると思っているんだろう?」
「……」
「そんなことはあり得ない。全員が笑う結果にはならない。誰かの幸福は誰かの不幸で成り立っている。それを理解しないで、馬鹿の一つ覚えに助ける助けないの繰り返し。その先には誰も居ないし、誰も救えない。結局何も残らない。どれだけ崇高な道を歩もうと、間違ってしまえば全てが無駄だ」
アドニスの言葉は終わらない。ひたすらに呪詛にも似た――暗い厭世を呟き続けている。アドニスはひたすらに呟いていた。誰も居ない海で、音の無い青の箱の中で。
けれど大波が立つことはなく、稲光が走ることもない。何も起きなかった。その時、漸く俺は気がついた。彼は、一人ぼっちだ。
彼の周りには本当に誰も居ない。物理的なこともそうだし、心理的な面でもそうなのだ。彼からは人と触れあって得る情動を感じない。彼からはたった一人の鼓動しか聞こえない。例えるなら人間一人を大きな箱に閉じ込めて、外に触れさせずに育てたような、そんな印象を受けた。
彼は空っぽだった。その空を、冷めた心情だけが無表情で居座っていた。淡々と言葉を紡いだアドニスは、相変わらず冷めた目で俺達を見つめていた。その瞳に見られていると、背筋を通り越して首もとまで凍ってしまったような気分になる。
アドニスは再び口を開いた。その唇から溢れ出る言葉が先程と同じく突き放すようなものかと思って身構えたが、そうではなかった。
「……けれど、君の言い分も理解はできる。自分の好きに動くというのは、実に人間らしいと言えるよ。……僕はそれが大嫌いだけどね」
アドニスは合わせ鏡の空を見上げた。白い首筋が無防備にさらされる。人生の全てを諦めてしまった老人のような雰囲気を纏ったアドニスは、空を見上げながら言葉を続ける。
「……君はクエストを受けた。世界からのクエストを。それならば尚更、スピカの居場所を語らない理由はない」
理由や彼自身の心情はさておき、語ってくれるならば耳を澄まして聞くのが道理だろう。変なことを言って情報を秘匿されても困る。
「……僕には、君にスピカの情報を与える義務がある。僕がどれ程拒もうと、それは変わりの無いことだ」
「……」
君が嫌いだし、君達が嫌いだけどね、とアドニスは言った。隣のメラルテンバルがビクッと震えたが、恐らくアドニスの言う君達というのはプレイヤーの事だろう。
レグルが俺たちに向ける感情を激しくうねる憎悪の炎とするのなら、彼が俺たちに向ける感情は凍りついた拒絶の塊と形容できる。淡々とした無関心。粛々とした拒絶。それを彼からは感じた。けれども世界の選択を優先したアドニスは淡々と語り始める。
「君は、フィールドボスを知っているだろう?」
「……あぁ。実際に出会ったこともある」
「なら、話は早い」
アドニスは青いコートのポケットに両手を突っ込んで目を瞑った。海面に映り込んだ赤い月に見つめながら、アドニスは言葉を続ける。
「この世界は、フィールドで区切られている。東西南北……勿論南東や北西もフィールドで区切られ、フィールドは更に四つのエリアに別れている。それぞれのエリアにエリアボスが居て、それぞれのフィールドにフィールドボスが居る」
「ああ、そこまでは分かる」
「君は確か、北のフィールドボスを倒したんだったか……それぞれの始まりの地から一直線に進んで二つ目のフィールドには、それぞれ僕達が居る。北は破滅、西は不滅、東は堕落……そして南は僕だ」
ワールドボスは郷愁を含めたら5人居る。四人が東西南北に別れて、スピカは空の上に居たのか。となると、やはりスピカの居場所は空の上なのか?考え込む俺に、アドニスは説明がめんどくさいとばかりに直球で答えを投げ掛けてきた。
「さて、君に質問だ。――始まりの地のフィールドボスは?」
「……おいおい、まさか――」
「そのまさかだよ。スピカ・レトリックだ。彼女は座標上はこの世界の中心……ロドリオンの町の真ん中に居る。けれど、彼女はそこには居ないよ」
さっきから話が飛び飛びだ。さっさと場所を教えて貰った方がお互いにとって得だろうに、アドニスは遠回りな説明を挟んでくる。それならどこに居るんだ?とアドニスに問い詰めると、彼は何でもないようにこう言った。
「別の世界だ」
「……別?え?別の世界?」
「彼女はこの世界に存在していない。この世界の裏側……影といってもいい場所に居るんだ」
脳で必死に情報を噛み砕く。彼女はこの世界に居ない……?特別エリアとか、そういった形ではなく新しい世界に居るのか?全く想像のつかない世界をどうにか想像しようとして、頭がこんがらがった。取り敢えず居場所だけなら分かったが……どうやって別の世界から彼女を取り戻すのだろう?そもそも世界を渡る力とかは持ち合わせて居ないのだが。
「……どうやってスピカに会いに行けばいい?」
「……幾つか方法がある。何度もポータルで転移をして『迷い混む』。世界中を歩き回ってランダムに生成されるゲートを通って『滑り込む』。そして……彼女の居る座標に生成される固定のゲートを見つけて『入り込む』」
受動か偶然か能動か。どう考えても選ぶべきは能動的な入り込みだ。それ以外の選択肢はギャンブルじみているし、明日の夜までにスピカの居る世界に飛べる気がしない。
……が、その選択肢を選ぶには越えなくてはいけない壁がある。『彼女の居る座標に生成される固定のゲート』……?つまるところ、始まりの地ロドリオンのど真ん中……町の中央に入り込めと言うことだろう?
「どれにするかは好きにするといいよ。ただ……向こうの世界に浮いている泡は極力割らないことを勧める」
「わ、わかった……」
『厭世の御方……僭越ながら質問を致します。向こう側へ行けるのは一人だけでしょうか?』
「……あそこに行けるのは一人だけだ。それに、行ったとしても死ぬ危険が増えるだけだよ。あそこじゃ翼なんて大きいだけの的だ」
『そう……ですか』
アドニスの言葉にメラルテンバルが項垂れた。恐らくアドニスの言う別世界とやらはイベントエリア……それも、たった一人のNPCの為に作られたワールドだ。どんなギミックがあるのか、どんな場所なのか皆目見当がつかない。もしかしたら入り口に立った瞬間に即死するような頭のイカれた場所かもしれない……それだけは勘弁してほしいな。
まだ見ぬ別世界に想像の力で対抗しようとしていると、用は済んだだろうとばかりにアドニスが言った。
「……君達の目的であるスピカの場所は教えた。ここにもう用はない筈だ」
「……ああ、用はない」
『情報に感謝致します』
「……好きなだけ足掻くといいさ。それで『世界』が変えられるのか、試してみるといい」
相変わらず皮肉の止まらないアドニスに一礼して、メラルテンバルの背中に乗った。感覚のおかしくなりそうな青の世界で、メラルテンバルの銀翼が上下に動き、海面に波紋を生む。
アドニスは俺たちに興味は無いようで、俺たちから眼を逸らして最初と同じようにこの世界の虚空を見上げていた。その視線に乗る感情は、俺には読み取れない。
上昇していく視線に、小さく息を吐いてアドニスから眼を離した。メラルテンバルが彼に背を向けて、いつもと同じように空を切る。最早慣れ親しんだ風を切る音と感覚に目を細めて、俺達は矛盾した青の世界から飛び出した。
外へ進めば進むほど、陸に近づけば近づくほど、空の太陽は南に沈んでいき、世界は再び夜に戻ろうとしていた。赤い月がほっとするように一人で輝く。そんな月を見つめながら、俺はメラルテンバルに話しかけた。
「なぁ……俺たちの目的地は、町のど真ん中だとさ。笑っちまうよな」
『そこへ行けと言われても……といった感じだよね。まあ、行くしか無いみたいだけど』
どういけば良いんだ。真っ正面から衛兵を突破しろと?衛兵だけじゃなくプレイヤーまで手を出してきたらマジで終わるぞ。間違いなく市街戦勃発は避けられない。慌てて周りの奴等に『吸収』を撃ち込む俺、増える被害者と敵対者。初心者の集まる場所に呪いを撃ち込むというのは、中々人道的にもゲーム的にもよろしくない。
更に言えばロードの評判が悪くなる可能性がある。門番に喧嘩を売ってそそくさと帰るだけならまだしも、市街地で呪術をぶっぱなしたら間違いなく指名手配ではすまないし、ロードに顔向け出来なくなる。それだけは嫌だ。
「どうしたもんかなぁ……」
『君の足の遅さがネックだよね。あと、正確な彼女の座標も分かっていないし、どうやって入るのかも』
まさか街中を走って逃げながら捜索しろと?無理がある。町のど真ん中と言われたが、俺は町に詳しくない。どうやって真ん中に行くかも分からないし、出来れば裏道を通ったりしたいが無理だ。かといって大通りを進むのも……。
「……考えよう。少なくとも正面以外の選択肢を頼む」
『そうだね』
このクエストの推奨レベルは高い。それはきっと、衛兵を真正面から突破することと、向こうの世界でも戦闘が起きることを示唆しているのだろう。
やっと見つけた彼女への道に立ち塞がった大きな問題に、俺は大きく唸った。
――――――――
青の門番は空を見つけて呟いた。
「君に、見つけられるかな」
その言葉にたいした意味はないし、何より特筆するような感情は乗っていない。ただ吐息を吐くように、アドニスは呟いた。
「……僕を説得してみなよ。きっと出来ないだろうけど……もしも出来たのなら――ああ、そうだよ。きっと、それなら『彼』を説得できる」
続ける言葉は酷く空虚だ。空っぽな世界に相応しい声色で、アドニスは言った。
「『もう寒々しいんだよ、自分に酔った天才は』」
彼には何もない。誰もいない。ただひたすらに世界に忠実なだけの厭世は、自分の存在意義すら見いだせずに空を見た。その行為に意味はないし、空が好きなわけではない。けれど、空を見ているときだけが、彼の安らぎだった。
空虚な安らぎに目を細めて、今日もアドニスは青の奥に閉じ籠る。いつか誰かが自分を打ち倒す、その未来を待ち望んで。
アドニス・レトリックは『彼』にとっての最高傑作だった。
しかし、アドニスは彼にそう言われても何も嬉しくなかった。
何度も生まれたことを後悔した。
何度も自分の存在意義に絶望した。
何度も何度も……何度も。




