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第67話: 三月の白百合

 三月三日の朝だった。




 帳場の机に、今年の帳面が開いてある。雑費の頁。三月三日の行がまだ白い。




 帳場の隅に空の箱がひとつ。裏書きの官の箱。次に使う日まで、ここにある。




 戸が鳴った。




 「母さま」ミラは言った。


 「起きていたの」母は言った。


 「はい」ミラは言った。「今年は、わたしが行きます」




 母は帳場に入ってきた。




 「白いままね」母は言った。


 「帰ってから書きます」ミラは言った。




 「この行を」母は言った。「十一年、あなたが書いてくれていた」


 「毎年、同じ行でした」ミラは言った。




 「意味も知らずに」母は言った。


 「意味は」ミラは言った。「帳面が教えてくれました」




 「見せてくれますか」母は言った。「最初の年の」




 ミラは棚から帳面をひとつ出した。十一年前の雑費の巻。頁をひらいた。




 三月三日。白き花、一束。二ソル。六つの年の字が、震えていた。




 母は、その行を長いこと見ていた。




 「きれいな字」母は言った。


 「震えています」ミラは言った。


 「きれいな字よ」母は言った。




 ミラは帳面を棚に戻した。




 「伝票は」ミラは言った。「母さまが届けさせていたのですか」


 「花屋に頼んで」母は言った。「帳場へ届けてもらっていました」


 「知りませんでした」ミラは言った。「伝票の出どころは、読みませんでした」




 「毎年、おひとりで上られたのですか」ミラは言った。


 「ええ」母は言った。「供を連れたことは、一度もありません」




 「雪の年もありましたか」ミラは言った。


 「ありました」母は言った。「雨の年も。三月三日だけは変えませんでした」


 「帳面にも」ミラは言った。「毎年、同じ日に立っています」




 「花は」母は言った。「坂の下に届いています。白百合を一束」


 「二ソルですか」ミラは言った。


 「二ソルです」母は言った。「十一年、変わりません」




 「指先が」ミラは言った。「母さまはいつも、土で汚れて戻られました」


 「花を触ると」母は言った。「茎に土がつきます」




 「道は覚えていますか」母は言った。


 「坂を上って、堂まで」ミラは言った。




 「風のある日は」母は言った。「花を布で包んで持ちなさい。茎が折れます」


 「はい」ミラは言った。




 「堂に着いたら」母は言った。「石の台に花を置きます。それだけです」


 「ほかには」ミラは言った。


 「何もしません」母は言った。「花を置いて、帰ります」




 「去年の三月三日は」ミラは言った。


 「わたくしが行きました」母は言った。「あなたがまだ戻らない年でした」




 「日のあるうちに、お帰りなさい」母は言った。


 「昼すぎには戻ります」ミラは言った。




 母は帳場を出ていった。戸は開けたままだった。




 門を出た。三月の朝の光が、道に降りていた。




 坂の下で花を受け取った。白百合が一束、布に包んであった。




 「エルフェルトの」花屋は言った。「毎年の花ですね」


 「はい」ミラは言った。「今年からは、わたしが受け取りに参ります」


 「お代は同じで」花屋は言った。


 「二ソルです」ミラは言った。




 銀貨を渡した。




 坂は半日の道だった。石が多く、雪がところどころに残っている。




 十一年、母はこの道をひとりで上った。行き先を誰にも言わなかった。帰ると、指先が土で汚れていた。




 帳面のなかで、この道を知っていた。三月三日、白き花、一束、二ソル。行の向こうに、この坂があった。




 堂は坂の上にあった。聖アニエス。石の小さな堂だった。




 「おはようございます」堂の前に、アンセルムがいた。


 「エルフェルト家のミラです」ミラは言った。「花を供えに参りました」


 「毎年、お見えになりますね」アンセルムは言った。


 「今年からは」ミラは言った。「わたしが参ります」


 「先代さまに」アンセルムは言った。


 「はい」ミラは言った。「先代さまの命日です」


 「いつもの場所に、どうぞ」アンセルムは言った。




 石の台に白百合を置いた。布をほどいて、茎を揃えた。指先に土がついた。




 先代さまの命日に、母が十一年、この場所に花を供えた。帳面では二ソルの雑費だった。ここでは、一束の花だった。




 ミラが十一年書いた行は、ここまで届いていた。字は帳面のなかにしかないと思っていた。字の先に、坂があり、石の台があり、花があった。




 堂のなかは静かだった。石の壁に、細い窓から光が落ちている。




 十一年ぶんの花は、もう残っていない。けれど帳面が覚えている。十一本の同じ行が、棚のなかに並んでいる。




 白い花が、三月の光のなかにあった。




 坂を下りた。午後の早いうちに、門をくぐった。




 母が廊下にいた。




 「お帰りなさい」母は言った。


 「供えてきました」ミラは言った。


 「ありがとう」母は言った。




 ミラは指先を見た。土がついていた。




 「指が」母は言った。


 「花を触ったら」ミラは言った。


 「ええ」母は言った。「わたくしも、毎年」




 帳場に入った。帳面を開いた。




 「何を書きますか」母は戸口にいた。


 「三月三日」ミラは言った。「白き花、一束。二ソル」


 「同じ行ね」母は言った。


 「同じ行です」ミラは言った。




 筆を取った。




 三月三日。白き花、一束。二ソル。




 十二年目の行を書いた。




 今年の行は、写しではない。自分が供えた花を、自分の手で書いた。




 「来年も」母は言った。「行きますか」


 「毎年、行きます」ミラは言った。


 「伝票は」母は言った。


 「もう届けなくて構いません」ミラは言った。「自分で供えて、自分で書きます」


 「この行だけは」ミラは言った。「写しではなく、自分の行を書きたいのです」




 母はうなずいた。




 六つの年に初めて書いた字は震えていた。白き花の「き」がうまく引けなかった。何の花かも、誰のためかも知らなかった。




 今年の字は、もう震えていない。




 帳面を閉じた。棚に戻した。背表紙が欠けなく並んでいる。




 帳場の隅の箱は空のままだった。窓から、三月の午後の光が入っていた。




 数字は嘘をつかない。ただ、正しく読む者を、待っていた。

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