第66話: 手袋を外す
最後の帳面だった。
ミラが数を読み上げた。レオが官の写しと照らした。一行ずつ。何百日とやった手順の、最後の一頁だった。
「合います」レオは言った。
ミラは帳面を閉じた。三千冊の、最後の一冊。十一年ぶんの数が、正しいと証された。
「突合は、終わりました」レオは言った。
帳面を棚へ戻した。番号のついた背表紙が、欠けなく並んだ。突合のあいだ帳場に置かれていた官の箱が空になった。
ミラは空の箱を見た。この箱に帳面を入れ、レオが官の封をし、一冊ずつ照らし、終われば棚に戻す。その繰り返しが、何百日か続いた。
箱だけが残った。
「書面は明日、王都へ送ります」レオは言った。
「レオさまは」ミラは言った。「いつ、発たれますか」
「明後日には」レオは言った。「四日で、王都に届きます」
何百日、同じ帳場で向かい合った。朝、ミラが帳面を棚から出す。レオが官の写しを開く。ミラが数を読み上げ、レオが照らし、合えば次の頁へ。合わなければ、ミラが行を遡る。遡ったのは数えるほどだった。
その日課が、明後日になくなる。
「裏書きは」ミラは言った。「まだ続きますね」
「続きます」レオは言った。「別の官が参ります。手続きは同じです」
手続きは同じでも、帳面を照らす目は変わる。ミラは、その言葉を静かに聞いた。
「レオさま」ミラは言った。
「はい」レオは言った。
「この家の帳面を」ミラは言った。「一度も、読み違えませんでしたね」
レオは少し黙った。
「あなたが書いた字だからです」レオは言った。「読み違えようのない字でした」
ミラは、レオが来る前のことを思った。十一年、ひとりで帳面を書いた。正しいかどうかを確かめてくれる人はいなかった。正しく書くことだけが、ミラにできる全部だった。
「前に、おっしゃいました」ミラは言った。「一度、人の一行を読み違えたと」
「はい」レオは言った。
「あのときは」ミラは言った。「おひとりでしたか」
「ひとりでした」レオは言った。「数字を読み、意味をつけ、断を下しました。全部、ひとりで」
「その方は」ミラは言った。
「獄で亡くなりました」レオは言った。「数字は正しかった。わたしの読みかたが、違っていた」
「正しい数字を」レオは言った。「わたしの読みかたが、嘘に変えた」
ミラは黙って聞いた。帳面を読むときの、静かな顔で。
この家にも、同じことがあった。正しく書かれた帳面を、義父が嘘に使った。数字が間違えたのではない。読みかたが、間違っていた。
「その人の帳面に触れたのは」レオは言った。「わたしの手でした。読み違えたのも、わたしの目でした」
レオは自分の手を見た。白い手袋。この帳場に来た最初の日から、一度も外さなかった。
「以来」レオは言った。「素手で帳面に触れませんでした」
「手袋をしていれば」ミラは言った。
「忘れずにいられます」レオは言った。「わたしは一度、間違えた人間だと」
「わたしも」ミラは言った。「十一年、ひとりで書いていました」
レオは顔を上げた。
「読んでもらえなくても」レオは言った。「正しく書いていた」
「正しく書いていただけです」ミラは言った。「意味は、読める人がつけてくれました」
窓から、午後の光が入っていた。突合の日にはいつも、この光のなかで帳面を開いた。
「この家では」ミラは言った。「間違えませんでした」
「この家では」レオは言った。「ひとりではなかった」
レオは右の手袋に左手をかけた。
引いた。白い指が出た。何年も手袋のなかにあった指だった。
左も外した。左手の指に、細い窪みがいくつもあった。
レオは素手を帳面に置いた。いま閉じた、最後の一冊の上に。
「読み違える気がしません」レオは言った。
「二人で読んだ帳面です」ミラは言った。
「二人でなら」レオは言った。「読み違えない」
手袋は机の上に置かれていた。
「裏書きの官は」レオは言った。「わたしが引き受けます」
「手続きは同じだと」ミラは言った。「おっしゃいませんでしたか」
「手続きは同じです」レオは言った。「けれど、この家の帳面は、わたしが読みたい」
「王都まで四日です」ミラは言った。
「四日です」レオは言った。「裏書きのたびに」
「往復で八日です」ミラは言った。
「八日です」レオは言った。
「この箱は」ミラは言った。「お持ちになりますか」
「置いていきます」レオは言った。「次に来るときに使います」
ミラは箱を帳場の隅に寄せた。空の箱。けれど、また帳面が入る日がある。
ミラは、レオの手を見た。手袋のない手が帳面の上にあった。
はじめて見る、この人の手だった。




