第65話: 名を呼ぶ
帳場の戸が、開いた。
細くではなかった。いちど開いて、止まって、そのまま押された。
奥さまが、立っていた。
十一年、この部屋に入ったことのない人だった。戸口を通り過ぎたことはある。開けかけて、閉めたこともある。けれど中へは入らなかった。
「お入りください」ミラは言った。
奥さまは一歩だけ中へ入った。帳場を見回し、インクの匂いに少し目を細めた。
「ここが」奥さまは言った。「あの人の帳場でした」
「先代さまの」ミラは言った。
「わたくしも、入ったことはありません」奥さまは言った。「あの人が生きていた頃から」
奥さまは棚へ歩いた。背表紙を見ている。番号のつきはじめた三千冊。
「番号がつけてあります」奥さまは言った。
「わたしが十年前からつけました」ミラは言った。「先代さまの巻には、番号はありません。字を見れば分かりましたから」
「おかけください」ミラは言った。
奥さまは首を振った。「座りません。ここは、あなたの席です」
「帳面を書いていました」ミラは言った。「新しい帳面です」
「拝見しても」奥さまは言った。
ミラは帳面を差し出した。奥さまは頁をめくった。西の蔵の屋根。寄進、二十四。手当、そのまま。
「この頁は」奥さまは言った。
「きのう立てた行です」ミラは言った。「当主として、はじめて」
「あの人と、同じ字の運びです」奥さまは言った。
「似ていますか」ミラは言った。
「数を書くときの力の入れかたが」奥さまは言った。「先代さまは、数の字だけ少し深く紙を押しました」
ミラは自分の手を見た。右手中指のペンだこ。会ったこともない父と同じ癖を、同じ指で継いでいた。
「奥さま」ミラは言った。
「はい」奥さまは言った。
「この帳面に、奥さまの名がありません」ミラは言った。
奥さまは、頁から目を上げた。
「家のどの紙にも」ミラは言った。「父が最初の帳簿に書いた一行のほか、どこにもありません」
奥さまは黙っていた。
「名が要るとは」奥さまは言った。「思いません」
「要ります」ミラは言った。「正しい帳面を残すのが、わたしの仕事です」
「消されたのは、わたしだけではありませんでした」ミラは言った。「十六年、奥さまも、この家の紙から消えていました」
宛を書かせなかった。名を呼ばせなかった。娘を守るために、この人は自分の名を紙のどこにも残さなかった。
「当主として」ミラは言った。「この家の帳面に正しくないことが書いてあるのは、終わりにします」
ミラはペンを取った。インクをつけた。
家の者の名を記す頁を開いた。使用人の名は、前の日に書いた。厨房頭。門番。庭番。十一年、同じ帳場で働いた人たちの名前。
最後の行が、空いていた。
書こうとして、手が止まった。
「奥さま」と書くところだった。十一年、声にも紙にも、そう書いてきた。
けれど帳面には正しい名を書く。
正しい名は、ずっと口の中で重かった言葉だった。当主になっても重いままだった。帳面には書いていない、その理由そのもの。
ミラは、母の名を書いた。そして、宛を。
先代さまが最初の帳簿に書いた名を、ミラは当主の帳面に書き直した。
ペンを置いた。
書いてしまえば、声にも出せた。
「母さま」ミラは言った。
帳面を読むときの、あの静かで正確な声で。
奥さまの手が、裾の上で止まっていた。
「ミラ」奥さまは言った。
前に呼んだときは、すぐには声が出なかった。今度は、一度で出た。
名を呼び合った。
十一年、名のなかった母と、名を呼ばれなかった娘が、帳場で、帳面の前で。
「母さま」ミラは言った。「一つ、聞いてもいいですか」
「なんでしょう」奥さまは言った。
「十一年、帳場の前を通るとき」ミラは言った。「何を思っていましたか」
奥さまは、長く黙った。
「字の音を」奥さまは言った。「聞いていました」
「字の音」ミラは言った。
「ペンが紙を押す音です」奥さまは言った。「あの人が、同じ音をこの部屋から出していました」
「先代さまと、似ていましたか」ミラは言った。
「同じでした」奥さまは言った。「あの人の音が、まだこの部屋に残っていると思いました」
十一年、母は帳場の外で娘のペンの音を聞いていた。入れない部屋の外で。開けられない戸の向こうで。
声は出せなかった。名は呼べなかった。けれど、音は聞こえた。夫と同じ音が、十一年。
「帳面には書けない数字です」ミラは言った。
「書かなくてよろしい」奥さまは言った。「聞こえていただけです」
ミラは帳面を閉じた。
家のどの紙にもなかった名が、いま、ミラの字で載っている。
「母さま」ミラは言った。「お茶を淹れます。帳場には、お茶の道具しかありません」
「いただきます」奥さまは言った。
棚の奥から、椀を二つ出した。一つは、ずっとこの棚にしまってあった。
「この椀は」奥さまは言った。
「先代さまのです」ミラは言った。「厨房頭が、ずっと棚に残していました」
帳面に名がある。椀が二つある。それだけのことに、十一年と少しかかった。




