第64話: 読む者として
監査院から、書面が届いた。
爵位と領地の帰属。先代さまの正統な子、ミラ・エルフェルト。手続きは、これで済んだ。
ミラは当主の席に着いた。
帳場の奥の机だ。十一年、ミラが座ることのなかった席だった。
その席から、棚がよく見えた。ミラが写した帳面の背が並んでいる。番号のつきはじめた三千冊。同じ棚を、下働きの隅からではなく、家をあずかる側から見ていた。
「追徴は、家へ戻ります」レオは言った。「ロシュの二割。十一年ぶん」
「外へ出ていた分ですね」ミラは言った。
「持ち山へ流れていました」レオは言った。「その分が、家へ返ります」
ミラは、十一年の帳面を思った。
二割は、いつも同じ丘へ出ていった。ロシュという名の持ち山だ。家が直せなかった屋根の分だけ、あの丘は広がった。
持ち山は、立件のときに家と王庫へ分けられた。残る二割の十一年ぶんが、いま追徴となって帳へ返る。屋根を直す費えが、はじめて家にあった。
ミラは、修繕の巻を開いた。
「西の蔵の屋根です」ミラは言った。「十一年、見積もりだけが三度綴じられました。工事の行はありません」
「二割を抜いた家には、重い費えでした」レオは言った。
「いまは費えがあります」ミラは言った。「直します。四度目の見積もりで、最後にします」
次に、寄進の巻を開いた。
「教区への寄進は、先代さまの代に二十四でした」ミラは言った。「継いだ人が、十二へ落とした。それきり動いていません」
「戻すのですか」レオは言った。
「二十四へ戻します」ミラは言った。「落ちたのは、二割のためでした。二割が戻るなら、寄進も戻せます」
人件の巻もあった。
使用人の手当は、はじめから相場より高い。十一年、一度も動いていない。辞めさせず、口を開かせないための額だった。
「これは、下げません」ミラは言った。「このままにします」
「黙らせる理由は、もうないのに」レオは言った。
「黙り賃だったものを、働きへの賃金に読み替えます」ミラは言った。「額は同じです。意味だけが変わります。家を保ったのは、この人たちの手でしたから」
「家は貧しくなりません」レオは言った。「二割が戻れば、抜かれる前の家に戻ります」
「増やすのではありません」ミラは言った。「あった場所へ返すだけです」
レオは、書きとめた。数はミラが読み、順はレオが控えた。
突合は、もう終わりに近かった。
ミラは、手を止めた。
十一年、この帳面を書いてきた。当主が決めた数を、そのまま写した。高い仕入れも、消された宛も、疑わずに写した。書き写すのが、下働きの仕事だった。
いまは、決める側に、自分がいた。
書き写す者ではなかった。読む者だった。
同じ数字でも、どこへ向けるかは、読む者が決める。屋根に出すか、丘へ流すか。寄進を戻すか、落としたままにするか。
先代さまも、そうだったのだろう。
娘のために、最初の帳簿を始めた人。里の便りを一行ずつ写した人。あの人も、数を、愛しかたの向きに使った。
その帳面の続きを、ミラはいま、当主として書いていた。
「これから、家の帳面は誰がつけますか」レオは言った。
「わたしです」ミラは言った。「当分は、当主のわたしが帳場に座ります」
「当主が、自分で数を読むのですか」レオは言った。
「読みます」ミラは言った。「数を人任せにした家が、どうなったかを見ました。当主が読めなくなった年に、二割は始まったのです」
「読める当主が、二割を止める」レオは言った。
「止めます」ミラは言った。「それだけは、わたしが誰よりできます」
「監査院の管理は、しばらく続きます」レオは言った。「出納に、官の裏書きが要ります」
「わかっています」ミラは言った。
「不便でしょう」レオは言った。
「いいえ」ミラは言った。「裏書きが要るのは、この家が一度、偽りを書いたからです」
「要らなくなる日は、来ますか」レオは言った。
「来ます」ミラは言った。「十一年、動かない字を書けば。正しいと分かれば、誰も裏書きを求めなくなります」
レオは、少しのあいだ、ミラを見た。
「あなたは、それをやる人です」レオは言った。
「突合が終われば」ミラは言った。「レオさまは、王都へ戻りますね」
「戻ります」レオは言った。「役目が、済みますから」
役目が済む。レオがこの家へ来たのは、罪を読むためだった。罪を読み終えれば、監査官の用は尽きる。
ミラは、そのことを、数の外で思った。
当主の席は、追放された日には、遠いものだった。数字しか読めぬ無能。そう言われて、門を出た。
その門を、いまは内側から見ている。
うれしい、とは違った。この席に着くために、先代さまは死んだ。奥さまは十一年、憎まれた。手に入れたものの下に、失ったものが積んである。
窓の外に、坂が見えた。
坂の上に、一度だけ会った人がいた。当主になっても、母、とはまだ呼べなかった。その理由は、帳面には書いていない。
ミラは、新しい帳面を開いた。表紙に、番号はまだない。
一行目を書いた。西の蔵の屋根。見積もり、四度目。工事、この春。
この家で、ミラがはじめて、自分の意思で立てた行だった。誰かに写せと言われた行ではない。読んで、決めて、書いた行だ。
右手中指のペンだこで、ミラはその一行を、もう一度なぞった。




