第63話: 沈黙の名誉
原本の突合は、午後まで続いた。
追徴の額が、少しずつ確かな数になっていく。ロシュの二割。十一年ぶん。ミラが原本の数を読み、レオが外の写しと照らした。
屋敷の帳面が、一冊ずつ番号をつけられていく。監査院の箱に納まっていく。
ミラが十一年書いた字が、証拠になり、記録になる。書いたときは、証拠にするつもりなどなかった。ただ、正しく書いた。
一冊、脇に置かれた帳面があった。奥向きの綴りだ。
「これは追徴に入りません」レオは言った。「けれど、記録には残ります」
「奥さまの手のある巻です」ミラは言った。
「監査院は、家の者ひとりずつの役を記します」レオは言った。「誰が、何を、いつ知っていたか」
「奥さまの役も」ミラは言った。
「はい」レオは言った。「そこが、まだ白いのです」
白い欄だった。
奥さまは被告ではない。盛らせてもいない。二割も取っていない。それは、もう分かっている。
けれど、別の問いが残っていた。
「奥さまは知っていました」ミラは言った。「先代さまが、病で亡くなったのではないことを」
「白き花ですね」レオは言った。
「病でない死を悼む人は、悼みを隠します」ミラは言った。「十一年、店名も届け先も書かせずに花を手向けた。知っていた人の手つきです」
「知っていて、黙っていた」レオは言った。「紙の上では、隠したことになります」
「なります」ミラは言った。
殺した人の家で、殺されたと知りながら、十一年黙って暮らした人。
紙にそう書けば、一行で共犯の隣に立つ。悼みも、守りも、その一行には映らない。
「役の欄は」レオは言った。「一度書けば、動きません。百年、そのまま残ります」
「わかっています」ミラは言った。「わたしは十一年、動かない字を書いてきました」
「奥さまは、言えませんでした」ミラは言った。
「なぜ言えなかったのですか」レオは言った。
答えを、レオは知っていた。それでも記録のために、ミラに言わせた。
「言えば、義弟どのが動きます」ミラは言った。「病でない死を疑う声がある。そう知れたら、まっさきに消しにかかるのは順の先頭の子です」
「先代さまの、実の子」レオは言った。
「わたしです」ミラは言った。
「奥さまには、証しがありませんでした」ミラは言った。「薬種商の写しも、家の床の空白も、奥さまの手には来ません」
「あれを集めたのは」レオは言った。
「わたしと、レオさまです」ミラは言った。「十一年と、令状が要りました。奥さまは、そのどちらも持っていませんでした」
「証しのない告発は」レオは言った。「告発した人が消されます」
「証しごと、消されます」ミラは言った。「そして次に消されるのが、隠してきた娘です」
だから奥さまは選んだ。
夫を殺した人を指させる日まで、黙る。指せない告発で娘を死なせるより、黙って娘を生かす。十一年、殺した人の隣で。悼みを、花一束に隠して。
役の欄は、まだ白い。
ここに隠匿と書くこともできる。共犯の疑い、と書くこともできる。
奥さまは、そう書かれても何も言わない人だった。憎まれるほうを、ずっと選んできた人だった。
白いままでいいと言うだろう。名誉を、返せとは求めない。
求めないから、するのだ。頼まれてすることではなかった。
「わたしが、申し立てを書きます」ミラは言った。「家の者として、奥さまの役を」
「役の欄は監査院が起こします」レオは言った。「あなたの申し立てを、その典拠にします」
「はい」ミラは言った。
ミラは新しい紙を引き寄せ、ペンを取った。差し押さえられた綴りには、もう触れない。書くのは、この一枚に、新しく。
十一年、この家の偽りの帳面を書いてきた指だった。同じ指で、今度はほんとうの一行を書いた。
証しを持たぬまま、娘を失う立場で、告発せずに娘を生かした。先代の死を悼み、その子を隠して守った。家の財からは一片も得ていない。
沈黙は、庇護であった。
「これで奥さまの名は」レオは言った。「共犯の隣には立ちません」
「はい」ミラは言った。
「記録は、読み違えられることがあります」レオは言った。「わたしは一度、人の一行を読み違えました」
「知っています」ミラは言った。
「だから、正しく書いておくことに意味があります」レオは言った。「もとの字が残っていれば、読み違えた人がいても、戻せます」
名誉、という言葉を、ミラは思った。
奥さまは、名誉を捨てて娘を守った。
冷たい妻だと言われた。夫の仇の隣にいる女だと見られた。それでも黙っていた。
奥さまは、娘を守るために、娘に憎まれた。娘は、母を守るために、母の名を書いている。
書き出された子が、書く側にいた。十一年、宛を消され、いないことにされた子だった。その子が、いまはペンを持っていた。
「十一年は戻りません」ミラは言った。
「戻りません」レオは言った。
「けれど、書いておけば」ミラは言った。「百年あとに読む人は、奥さまを共犯とは読みません」
窓の光が傾いていた。
新しい紙に、一行だけあった。奥さまの手つきを真似た、ミラの字だった。
その一行は、誰に見せるためでもなかった。ただ、正しく残すために書いた。




