第62話: 後始末
帳場に、差し押さえの札が積まれていた。
棚の帳面に一冊ずつ番号がつく。監査院が管理する記録になる。レオは官吏と蔵のほうへ出ていた。原本の突合は、午後からだった。
屋敷は静かだった。使用人の半分は、もう暇を出されていた。門番も、厨房の者も。残った者が、荷を片づけている。
十一年、ミラが下働きとして数えられてきた家だった。いまは、ミラがその家を預かっていた。同じ帳場に、同じ机で座って、番号のつく帳面を見ていた。
戸口に、人が立った。
セリーヌだった。華やかなドレスではなかった。地味な、旅の支度に近い装いだった。手に、扇はなかった。
「お戻りだと聞いたわ」セリーヌは言った。
「はい」ミラは言った。
「お父さまが、連れていかれたことも」セリーヌは言った。「聞きました」
セリーヌは帳場を見た。番号のついた帳面を見た。十一年、ミラが書いてきた棚だった。
「これ、ぜんぶ、あなたのものになるの」セリーヌは言った。
「家のものです」ミラは言った。「わたしは、預かるだけです」
「わたしの婚約は」セリーヌは言った。「春に、白紙になりました。ご存じでしょう」
「うかがいました」ミラは言った。
「あなたが、そう仕向けたの」セリーヌは言った。
棘のある言い方ではなかった。ただ、確かめる言い方だった。
「わたしは、帳面を書いただけです」ミラは言った。「白紙にしたのは、紙です」
「紙、ね」セリーヌは言った。「あなたは、いつもそう言うのね」
この帳場に、セリーヌは何度も来た。用のない用で来て、ミラを見下して帰った。拾い子さん、と呼んだ。書き写す指があるだけね、と。
いまは、扇を持っていなかった。見下す言葉も、持っていなかった。
セリーヌは、棚に手を触れた。指の先だけ、そっと。
「わたし、お父さまにもお母さまにも、訊けなかったの」セリーヌは言った。「誰の娘なのか。お父さまは、いない。お母さまは」
セリーヌは言葉を切った。
「お母さまは、どこ」セリーヌは言った。
ミラは、少し黙った。
「奥さまは」ミラは言った。「わたしの、母でした」
セリーヌの指が、棚の上で止まった。
「あなたの」セリーヌは言った。
「先代さまと、奥さまの子です」ミラは言った。「わたしが、この家の生まれでした」
セリーヌは、長く動かなかった。
「では、わたしは」セリーヌは言った。「あの人の、なんだったの」
答えは、ミラにもなかった。奥さまはセリーヌを産んでいない。旦那さまも、ほんとうの父ではない。セリーヌが誰の子かは、どの紙にも書いていなかった。書けるのは、連れていかれた人だけだった。
「あの人は」セリーヌは言った。「わたしにも、冷たかったわ。あなたにも、冷たかった。ずっと、同じだと思っていた」
「同じでは、なかったのですね」ミラは言った。
セリーヌは、少しのあいだ、それを考えた。
「あなたのは、隠していた冷たさ」セリーヌは言った。「わたしのは、ただの、冷たさ。下に、何もない」
自分で組み立てた言い方だった。誰にも、教わっていなかった。
「訊く相手が」セリーヌは言った。「いなくなったのね」
「はい」ミラは言った。
「あなたは、見つけたのに」セリーヌは言った。「わたしは、これから、誰にも訊けない」
同じ家が、二人に嘘をついた。
ミラには、拾い子だと言った。セリーヌには、実の娘だと言った。どちらも、ほんとうではなかった。
見下す側と見下される側に分けられて、二人は、同じ細工の表と裏だった。
「わたしを、恨んでいるの」セリーヌは言った。
ミラは、帳面から目を上げた。
「あなたも、細工された行でした」ミラは言った。「恨む先があるとすれば、この行を書いた人です」
左手の親指が、上がりかけた。胸の高さで、止まった。爪は、下りなかった。
ミラは、それを数えなかった。数えるのは、もうやめていた。
「出ていけと、言わないの」セリーヌは言った。「あなたを、この家は出したのに」
「言いません」ミラは言った。
「なぜ」セリーヌは言った。
「出された日のことを、覚えているからです」ミラは言った。「同じことは、しません」
セリーヌは、ミラを見た。淡い青の目だった。父にも母にも似ない、と言われてきた色だった。いまは、似る相手が、どこにもいなかった。
「ミラ」セリーヌは言った。「あなたは、昔から、そうよね。訊かない。訊かないで、全部、覚えている」
セリーヌは、棚の帳面に目を戻した。番号のついた背が、並んでいた。
「あなたの帳面には」セリーヌは言った。「わたしのことも、書いてあったの?」
「名だけです」ミラは言った。「あなたの名は、ずっと、正しく書いてありました」
「そう」セリーヌは言った。「それだけでも、あったのね」
「行くところは」ミラは言った。
「王都に、遠い親戚がいるそうよ」セリーヌは言った。「そのうち話す、と言われていた人たちの、どこか。たぶん、そこにも、わたしの紙はないわ」
紙のない場所へ、セリーヌは行こうとしていた。
ミラは十一年、紙だけを頼りに生きてきた。頼る紙が一枚もないというのが、どんなことなのか、ミラにはよく分かった。
セリーヌは出ていった。
棚には、番号のついた帳面が残った。その一冊にセリーヌの名がある。正しく書かれた名だ。
名も番号をつけられ、監査院の記録になる。
名だけが本物だった娘は、その名を家に置いて出ていった。




