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第61話: 最初の帳簿

 坂は、半日の道だった。


 ミラは朝に発って、昼に堂の下へ着いた。十一年、帳面で書いてきた道だった。三月三日、白き花、二ソル。書いた日付の道を、はじめて自分の足で上った。




 雪が、坂のところどころに残っていた。この土地では、白い花を持って堂の坂を上る。それが弔いの習いだった。


 ミラは、手ぶらだった。花を持つ人には、まだなれなかった。




 堂は坂の上にあった。聖アニエス。石の小さな堂だった。


 その前に、濃紺の背中があった。奥さまだった。白い花を、石の台に供えていた。三月三日には、まだ数日ある。今年は、早く来ていた。




 ミラは坂を上りきった。足音がした。


 奥さまが振り返った。




 十一年、ミラを見なかった目が、ミラを見ていた。


 その目は、ミラと同じ色をしていた。濃い灰色だった。同じだと分かる見かたで、はじめて、見ていた。




 「来ると思っていました」奥さまは言った。


 「はい」ミラは言った。


 「義弟どのは」奥さまは言った。


 「監査院が預かりました」ミラは言った。「もう、戻りません」


 奥さまはうなずいた。花に目を戻した。十一年、この人がひとりで供えてきた花だった。




 「知っています」ミラは言った。「奥さまが、わたしを産んだことを」


 奥さまの手が、花の上で止まった。


 「いつ」奥さまは言った。


 「きのうです」ミラは言った。「帳場で。ギヨムが、十六年前の冬のことを話しました」


 奥さまは、長く黙っていた。




 「ひとつ、うかがっても」ミラは言った。


 「なんでしょう」奥さまは言った。


 「六つの冬に」ミラは言った。「熱を出して、三日寝ていたことがあります。夜に一度、奥の戸が細く開いて、すぐに閉まりました。あれは」


 奥さまは花に目を落とした。




 「開けました」奥さまは言った。「うなされる声が、聞こえたので」


 「閉めたのも」ミラは言った。


 「わたくしです」奥さまは言った。「入って看れば、なぜと訊かれます。訊かれれば、答えねばなりません。答えれば、あなたが誰か知れます」


 「だから、戸を閉めた」ミラは言った。


 「十一年、そればかりしていました」奥さまは言った。「開けかけて、閉める」




 「憎んでくれていい」奥さまは言った。「憎まれるために、そう振る舞ったのだから」


 「憎めません」ミラは言った。「守られていたと、分かってしまいました」




 奥さまはミラを見た。口を開いた。一度、閉じた。もう一度、開いた。


 「ミラ」奥さまは言った。




 十一年、一度も呼ばれなかった名だった。


 父がつけた名を、母は呑んできた。氏を消しても、宛を消しても、この名だけは残した。声に出せば娘が立つから、呼ばずにきた。


 それを、母が呼んだ。




 奥さまは、懐から小さな帳面を出した。古い革の表紙だった。


 「先代さまが、あなたの生まれた年に始めた帳面です」奥さまは言った。「最初の一冊。あなたのための帳面です」


 ミラは受け取った。表紙を開いた。




 先代さまの字だった。ミラは、父の字をはじめて見た。


 いちばん初めの行に、日と、名と、宛があった。ミラ・エルフェルト。父の名。そして、母の名。


 この家のどの紙にもなかった母の欄が、ここにあった。はじめから、書いてあった。




 頁をめくった。父の字が続いていた。日付をつけ、順に並べて、娘のことが記してあった。


 里へ出したあとの便りを、先代さまは一行ずつ書き写していた。はじめて立った、と便りにあった日。はじめて口をきいた、と。


 「言葉より先に、数を覚えたそうです」奥さまは言った。「里の便りに、そうありました」


 「三つの秋に、井戸の釣瓶を二十まで」ミラは頁を追った。「これも、便りからですか」


 「会えないぶん、数えていました」奥さまは言った。「あなたが遠くでひとつ大きくなるたび、先代さまは一行ずつ」


 「この子は帳場の子になる、と書いてあります」ミラは言った。


 「口ぐせでした」奥さまは言った。




 遠くにいる娘を数えることが、この父の愛しかただった。ミラは、会ったこともない父から、帳面のつけかたを継いでいた。


 ミラが家の帳面を書かされていたあいだ、この一冊は、この人の懐にあった。




 「先代さまは」ミラは言った。「どんな人でしたか」


 「数を、面白がる人でした」奥さまは言った。「あなたと、同じです」


 「弟のことは」ミラは言った。


 「気づいておられました」奥さまは言った。「家を欲しがる目だと。だから、あなたを表に出さなかった。生まれた日から」




 「先代さまは、あなたに帳面を教えるつもりでした」奥さまは言った。「いつか、これを渡すつもりで。……渡せませんでした」


 ミラは頁を見た。父が娘のために始めた帳面だった。


 偽りの帳面で育ったミラは、知らずに、ほんとうの帳面の続きを書いていた。




 「わたしは」ミラは言った。「何を、赦せばいいんでしょう」


 「奥さまは、悪いことをしていません」ミラは言った。「わたしを生かすために、できることを全部しました。赦すものが、どこにもありません」


 「それでも」ミラは言った。「十一年は、戻りません。冷たかった日々は、ほんとうに冷たかった。守られていたと分かっても、あの日々が寒かったことは、消えません」


 赦すものがなくて、忘れられないものがある。ミラは、それをどう名づければいいのか、分からなかった。




 「赦さなくていい」奥さまは言った。「あなたが生きているなら、それでいい」


 声が、途切れた。十一年、一度も途切れなかった声だった。




 「奥さま」ミラは言った。


 呼び名は、まだ変えられなかった。十一年、そう呼んできた。母、という言葉は、口の中で重かった。


 「はい」奥さまは言った。ミラの呼びかけに、はじめて、はいと答えた。




 白い花が、石の台にあった。三月三日は、もうすぐだった。


 来年は、とミラは思った。来年は、わたしが供える番かもしれない。


 母は、花の隣に立っていた。もう、何も隠していなかった。

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