第60話: 十一年の犠牲
四日かけて、領地に戻った。
門は開いていた。閉める人がもういなかった。
帳場は、出ていった日のままだった。机も、棚も、動いていない。誰も触っていない。
レオが原本の束を棚から下ろした。追徴の額を確定するための突合だった。
「上から順に年次で並んでいます」ミラは言った。「先代さまの代からです」
「では、古いほうから」レオは言った。
突合は静かに進んだ。ロシュの二割。白き花の二ソル。教育費の年二十四。数はすべて、覚えているとおりだった。
別の手のことも、もう分かっていた。奥向きの二年を書いたのは奥さま。ミラが十年なぞってきた癖の、もとの手だった。
埋まっていない欄が、ひとつ残っていた。
審理の机で、ミラは先代さまの実の子だと認められた。洗礼の帳面がそう書いていた。
けれど、その帳面に母の欄はなかった。産んだ人の名は、どの紙にもない。
ミラは十六年前の頁を開いた。宛のない産の三行。
産着、絹、五リーヴル。乳持ちの手当、一年ぶん。教会への礼、五リーヴル。
使用人の子の十倍。それなのに、宛だけが立っていない。誰の子かを、家は書かせなかった。
「先代さまの子だと、紙は言います」ミラは言った。「でも、母のことは言いません」
「洗礼の帳面にも、母の欄はありませんでした」レオは言った。
「この産にも、宛がありません」ミラは言った。「先代さまの子で、母の知れない子です。そういう子が、家のいちばん奥の綴りに、産着で迎えられています」
「腑に落ちませんか」レオは言った。
「落ちません」ミラは言った。「里の女に産ませた子なら、こんなに丁寧には書きません。この産は、家の子の産です。宛だけを、立てさせていません」
外で足音がした。蔵番のギヨムだった。年老いた背が、戸口で止まった。
「お戻りと聞きまして」ギヨムは言った。「ご無事で」
「奥さまは」ミラは言った。
ギヨムは目を伏せた。
「旦那さまが連れていかれた日に」ギヨムは言った。「お出かけになりました。坂の上のほうへ」
「坂の上」ミラは言った。
「三月の、いつもの道でございます」ギヨムは言った。「今年も、その時期が近うございますから」
白き花の道だった。年に一度、奥さまが土で指を汚して上っていった坂。先代の命日の花を手向けに行く道。
ギヨムは坂を見たことしか言わなかった。行き先の名は言わなかった。十一年、そうしてきた人だった。
「ひとつ、うかがっても」ミラは言った。
「はい」ギヨムは言った。
「十六年前の冬、奥さまは、この家におられましたか」ミラは言った。
ギヨムは長く黙った。
「あの冬は」ギヨムは言った。「奥さまは、離れにおいででした。お加減がよろしくないと」
「離れに」ミラは言った。
「ひと冬、出てこられませんでした」ギヨムは言った。「春に、赤子の泣く声がしたと、下の者が申しておりました。……そういうことは、口にせぬのが決まりで」
ギヨムは頭を下げて、出ていった。
離れにひと冬伏せて、春に赤子の声をあげた人。
その同じ人が、生まれた子の宛を立てさせなかった。その子を里へ出した。拾い子として戻した。十一年、名を呼ばなかった。
母だった。
庇護者だとは、もう知っていた。冷たさが盾だとも、知っていた。知らなかったのは、その人がミラを産んだ、ということだった。
「奥さまは」ミラは言った。「わたしを、産んだ人です」
声は、思ったより静かに出た。
レオは何も言わなかった。手袋の手を、膝の上に置いたままだった。
追放の日の、奥さまの目を思い出した。ミラを見なかった目。
あの目は、ミラと同じ色をしていた。十六年、同じ色だった。それなのに、一度も、同じだと見せなかった。
「なぜ、里から戻したのだと思いますか」ミラは言った。「戻した先は、先代さまを手にかけた人の家です。いちばん危ないところです」
「遠くにいては」レオは言った。「守れないからでしょう」
「はい」ミラは言った。「里に置けば、手が届きません。目の届くところに置いて、憎ませながら、生かすほうを選んだのです」
「隠したのは、戻してからではありません」ミラは言った。「生まれた日からです」
「先代さまは、まだご存命でした」レオは言った。
「存命でも、娘がひとりいれば、弟は継げません」ミラは言った。「近い順にいた人を、遠くへ下げてしまいます。だから、生まれた日から宛を立てさせなかった。順の外に置いたのです」
教育費の二十四が、寄進の二十四と同じ額だと気づいたのは、追放から五十日を越えた頃だった。あのとき、数は線にならなかった。行き先が違ったからだ。
いま、線を引くのは数ではなかった。産んだ人の手だった。
「守られていた」ミラは言った。「それだけでは、足りません」
「足りませんか」レオは言った。
「守り手なら、遠くからでもできます」ミラは言った。「この人は、産んで、遠くに置いて、名を呼ばず、憎ませました。守るためだけなら、そこまではしません」
「母だから」レオは言った。
「母だから、そこまでしたのです」ミラは言った。
ミラは別の手の頁に触れた。
十一年、この人の字を書いていた。産んだ人の手つきで、産んだ人に守られているとも知らずに、この家を写してきた。
「明日、坂へ行きます」ミラは言った。
「わたしも参りましょうか」レオは言った。
「いいえ」ミラは言った。「はじめて会う人です。ひとりで行きます」
レオはうなずいた。突合の続きは、明日でよかった。
窓の外に、坂が見えた。雪の残る坂だった。三月が近かった。
花を手向ける人が、いつもより早く、そこへ上っていったと聞いた。
その坂の上に、まだ会っていない人がいた。ミラを産んで、母と名乗らなかった人が。




