坂本城の頼み――帰路の寄り道
安土を発った少弐冬明は、そのまま兵庫津へ戻るつもりでいた。
地球儀は安土へ置いてきた。
七つの酒も役目を終えた。
シレトクたち数人を連れ、琵琶湖沿いを南へ下る。
ところが帰路の途中、明智光秀から声が掛かった。
「せっかくここまで参られたのです。坂本へお寄りください」
「明智殿の城へ?」
「はい。少々、お話ししておきたいことがあります」
断る理由もなかった。
少弐はそのまま坂本へ向かった。
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坂本城
坂本城は琵琶湖に面していた。
昨日の安土とは違う。
新しい権力を誇示するための巨大な城というより、京と近江を押さえ、湖上交通を監視するための実務的な城に少弐には見えた。
ここは明智光秀の本城である。
城へ入った少弐は、格式張った大広間ではなく、光秀が普段政務に使う部屋へ通された。
茶が出された。
さすがに酒は出なかった。
「助かります」
少弐が本気で言うと、光秀が笑った。
「昨夜はずいぶん召されたそうで」
「誰から聞きました?」
「安土で知らぬ者を探すほうが難しいかと」
「それは困った」
少弐は茶を飲んだ。
しばらく雑談した後、光秀が本題へ入った。
「まず、昨日の件ですが」
「地球儀ですか」
「それも含めてです。上様からの謝礼があります」
少弐が眉を上げる。
「別に構いませんよ。約束していたものですから」
「そう申されると思いましたので、すでに話は進めております」
「勝手ですね」
「上様の謝礼を断るほうが面倒でしょう」
それには少弐も反論できなかった。
光秀によれば、謝礼の品々は後日まとめて清洲へ回し、そこから船へ積む。
海路で兵庫津――神戸まで運び入れる手筈にするという。
「陸路で持ち帰る必要はありません」
「それはありがたい」
少弐は素直に礼を言った。
「何が来るのかは聞かないでおきましょう」
「そのほうがよろしいでしょう」
そこで一つ目の話は終わった。
光秀が茶碗を置いた。
「それから、これは情報交換として」
声が少し変わった。
少弐も姿勢を正した。
「羽柴殿が動いております」
「秀吉殿が?」
「丹後方面へ抜ける策を考えているようです」
少弐は黙って光秀を見る。
光秀はすぐに付け加えた。
「ただし、これは織田全軍の総意ではありません」
「なるほど」
「羽柴殿は知恵者です」
光秀は静かに言った。
「ときおり、私にも何を考えているのか分からぬことがある」
少弐は少し笑った。
「明智殿がそう言いますか」
「だから厄介なのです」
それ以上、光秀は語らなかった。
少弐も聞かなかった。
丹後。
その一言だけで十分だった。
昨夜、信長とは畿内の話を一切しなかった。
今日もまた、光秀から織田の軍議をすべて聞き出そうとは思わない。
だが、羽柴秀吉個人が西へ抜ける道を探している。
しかも、それが織田家中で完全に統一された方針ではない。
それだけ覚えておけばよかった。
「ありがたく」
少弐は頭を下げた。
「こちらからも何か分かれば、お返ししましょう」
「それで結構です」
光秀は頷いた。
ところが話はそれで終わらなかった。
「もう一つ」
「まだありますか」
「こちらは織田の話ではありません」
光秀は少し間を置いた。
「比叡山です」
少弐の目が細くなる。
「比叡山が?」
「昨今、バテレンの教えが広がっております」
少弐自身がカトリックであることを、光秀は当然知っている。
だからこそ、妙な話だった。
「山では、それを危険視する声が強くなっているようです」
「でしょうね」
少弐はあっさり答えた。
驚くことではない。
新しい教えが入ってくれば、古い寺社が警戒する。
まして比叡山である。
「それで、山では何かを探しているそうです」
「何か?」
「比叡山の威光を、改めて世に示せるものを」
少弐は首を傾げた。
「仏具ですか」
「それも含まれるでしょう」
「経典?」
「それもでしょう」
光秀は苦笑した。
「私にも、まだ何を欲しているのかは分かりません」
どうやら単なる珍品収集ではないらしい。
バテレンの教えが広がる。
それに対抗して、比叡山も自らの歴史、権威、信仰を人々へ示したい。
そのための何かを探している。
「なるほど」
少弐は少し考えた。
「つまり珍しい唐物を一つ寄進すれば済む、という話ではない」
「そのようです」
光秀は頷いた。
「そして、これは進物を求めているわけでもありません」
「買う?」
「はい」
光秀ははっきりと言った。
「相応の品ならば、高値でも買い取りたいとのことです」
それなら話が違う。
寺院が威光を示すために必要な品を、正式に金を払って求めている。
かなり切実なのだろう。
少弐は顎に手を当てた。
「それを、なぜ明智殿が私に?」
光秀は少し困ったように笑った。
「織田は、いま比叡山に冷たい」
短い答えだった。
「こちらから積極的に取り持つ者がおりません」
「だから放っておかれている」
「そのようなものです」
光秀は少弐を見る。
「しかし、少弐殿ならば話くらいは聞けるでしょう」
北方の品。
朝鮮の品。
明の品。
南蛮の品。
書物。
宗教具。
古物。
そして何より、それらをどこから探してくればよいのかを知っている。
「比叡山へ、一度訪ねてやっていただけませんか」
少弐は茶碗を見た。
昨日、信長と世界の酒を飲んだ。
今日は明智光秀の城で、秀吉が丹後を狙っていると聞かされ。
その次には比叡山から、バテレンに対抗するための品を探してほしいと言われる。
「……私は帰りたいのですが」
光秀が笑った。
「比叡山は帰り道でしょう」
「そういう問題ではありませんよ」
シレトクが後ろで小さく笑った。
少弐はため息をついた。
だが、断らなかった。
「分かりました」
茶を飲み干す。
「何を売るかは約束しません」
「もちろん」
「まず、何を欲しているのか聞くだけです」
「それで十分です」
少弐は立ち上がった。
こうして安土から兵庫津へ帰るだけだった旅に、もう一つ寄り道が増えた。
比叡山。
しかも今度の相手が求めているのは、酒でも地球儀でもない。
自分たちの威光をもう一度世に示すための何か。
少弐自身にも、まだそれが何なのか分からなかった。




