細き糸――比叡山の願い
天正二年二月。
坂本城を辞した少弐冬明は、その足で比叡山へ向かった。
明智光秀から聞かされた話では、比叡山が何やら威光を高める品を探しているという。
何を求めているのか。
仏具なのか。
経典なのか。
唐物なのか。
それすらよく分からない。
ひとまず話だけ聞いてみるつもりだった。
ところが山へ着いてみると、どうも様子がおかしい。
少弐の名を告げる。
すると僧の一人が顔を見た。
「……少弐冬明殿か」
「はい」
「兵庫津の?」
「そうですが」
僧たちが顔を見合わせた。
どうやら京で妙な噂が広まっているらしい。
北の果てまで行った。
朝鮮王都へ入った。
琉球へ行った。
南蛮人を連れて歩いている。
毛利とも親しい。
世界中の珍品を兵庫津へ集めている。
どこまで本当で、どこから尾ひれがついた話なのか、少弐自身にも分からない。
ともかく話は早かった。
ほとんど待たされることなく、本堂へ招き入れられた。
そこで挨拶を済ませるや否や、僧たちは本題へ入った。
「昨今のバテレンどもの広がり、少弐殿も御存じでありましょう」
いきなり来た。
しかも少弐自身がカトリックである。
「まあ……存じております」
少弐は曖昧に答えた。
だが相手は止まらなかった。
「もはや商人だけではござらぬ」
僧の声が本堂に響く。
「武士が入る。商人が入る。そればかりか百姓にまで広がっている」
別の僧も続けた。
「どこへ行ってもバテレンがおる。その者どもは土地も身分も越えて、互いに結びついております」
少弐は黙って聞いた。
彼らが恐れているものが、だんだん分かってきた。
教義だけではない。
つながりそのものなのだ。
九州。
堺。
京。
港。
商人。
武士。
農民。
これまで別々だった人間が、同じ信仰を通じて横につながり始めている。
「九州では、バテレンに心酔した大名のために家中が割れたとも聞く!」
「堺でも南蛮人と親しくする商人が増えた!」
そして僧は身を乗り出した。
「このまま放置していては、一領国の話では済みませんぞ」
その言葉だけは、少弐も軽く受け流さなかった。
確かにそうだ。
信仰は国境で止まらない。
大名の領地とも関係なく人間を結ぶ。
少弐自身、それをよく知っている。
さらに僧たちの矛先は織田へ向かった。
「それなのに織田は!」
一人が声を荒らげた。
「信長公をはじめ、バテレンに甘い!」
「南蛮の品を珍しがり、喜んで集める始末!」
「異国の器、異国の衣、異国の酒!」
少弐は昨日の安土を思い出した。
地球儀。
六つの酒。
最後にはオホーツク海底の蜂蜜酒まで飲ませた。
――私もかなり加担しているな。
そう思ったが、もちろん口にはしなかった。
「看過できん!」
僧の声が本堂に響いた。
少弐はしばらく待った。
まだ何か言いたそうだったので待つ。
ようやく一段落したところで、静かに聞いた。
「それで」
僧たちが少弐を見る。
「何をお求めなのです?」
本堂が静かになった。
少弐は周囲を見た。
「明智殿から、比叡山が何かを探しているとは聞きました。しかし肝心の何を探しているのかまでは聞いておりません」
僧の一人が答えた。
「宝ならば、すでにある」
比叡山には長い歴史がある。
経典もある。
仏像もある。
仏具もある。
歴代の権力者から納められた品々もある。
「ただ珍しいだけの唐物が欲しいわけではござらぬ」
別の僧が続ける。
「あの大和大祭で納められた香」
少弐は覚えていた。
「香箱も見事であったと聞いております」
「確かに」
僧は頷いた。
「だが、それ以上のものが欲しい」
「以上?」
少弐が聞き返す。
僧はしばらく言葉を探した。
「人が見て――」
本堂の仏像を見る。
「仏を思うものだ」
少弐の表情が変わった。
「高価だから拝むのではない」
僧は続ける。
「珍しいから人が集まるのでもない」
「では?」
「見た者が、思わず手を合わせるようなもの」
別の僧が言った。
「神々しいものだ」
少弐は黙った。
ようやく注文の意味が分かった。
彼らが欲しいのは宝物ではない。
金銀でもない。
巨大な香木でもない。
南蛮人が珍しがるような異国趣味でもない。
人の信仰心そのものを揺さぶる何か。
「なるほど」
少弐は小さく呟いた。
難しい注文だった。
いや。
普通の商人なら断るだろう。
ところが少弐は、少しだけ考えていた。
北方で見たもの。
朝鮮で見たもの。
明から来たもの。
古い記録。
海の向こうの宗教。
人がなぜ何かを神聖だと思うのか。
頭の中でいくつかのものが結びつき始めていた。
「少し時間をいただけますか」
僧が少弐を見る。
「心当たりが?」
「まだ何とも」
少弐は正直に答えた。
「ですが、探してみます」
「どこを?」
少弐は少し笑った。
「それをこれから考えます」
僧たちは顔を見合わせた。
どうやら本気で期待しているわけではないらしい。
無理もない。
比叡山自身が探して見つからなかったものを、兵庫津の商人まがいの武士が簡単に持ってこられるはずがない。
それでも。
「……頼みまする」
僧の一人が頭を下げた。
先ほどまでバテレンを声高に非難していた男とは思えないほど、静かな声だった。
「正直に申せば」
もう一人が言った。
「頼れる者がおらぬのです」
織田は冷たい。
公家に頼んでもどうにもならない。
大名たちは戦に忙しい。
商人に頼めば、高価な唐物や南蛮渡来の珍品ばかり持ってくる。
だが、それでは違う。
彼らが欲しいものは、値札の付いた珍品ではない。
人が仏を思い出す何かだった。
少弐は立ち上がった。
「分かりました」
そして本堂の仏像へ一度目を向ける。
「約束はできません」
僧たちも頷いた。
「それでよい」
「ですが」
少弐は振り返った。
「探してみます」
それだけだった。
比叡山にとっても、大した期待ではなかった。
世界を歩き回っているという奇妙な男がいる。
もしかすると何か知っているかもしれない。
その程度だった。
だが、いまの彼らには、その程度の可能性しか残っていなかった。
頼る相手のいない比叡山がつかんだ、
一本の細い糸だった。
そして少弐の方には――
すでに、ぼんやりと一つの考えが浮かび始めていた。




