忘れるな――安土の朝
結局、その夜は飲みすぎた。
七種類。
一杯一杯は大した量ではなかったはずなのだが、地球儀を回しては飲み、話しては飲み、また別の国へ移って飲む。
それを繰り返しているうちに、少弐も信長もすっかり酔ってしまった。
最後のオホーツクの蜂蜜酒を飲み終えたころには、少弐自身、何をどこまで話したのか少々怪しかった。
「今日は泊まれ」
信長が言った。
「そうします」
少弐も素直に答えた。
この状態で比叡山まで戻る気にはなれない。
用意された安土城の客間へ入り、少弐はほとんど倒れ込むように床へ入った。
シレトクから、
「世界を七つも飲むからだ」
と言われたことだけは覚えている。
反論する気力もなく、そのまま眠った。
翌朝。
少弐が目を覚ますと、使いが待っていた。
「上様が、朝餉を共にと」
「……元気だな」
頭を押さえながら少弐は起き上がった。
顔を洗い、身なりを整えて向かう。
昨夜とは違う、小さな部屋だった。
朝餉も思ったより質素だった。
飯に汁、魚、漬物。
信長はすでに座っていた。
「遅い」
「客人ですよ、私は」
「余より遅く起きる客があるか」
「昨日、誰が酒を勧めたと思っているのです」
「おぬしだ」
「そうでしたかね」
二人とも笑った。
昨夜あれだけ世界について話したというのに、朝になれば琵琶湖を眺めながら飯を食う。
妙なものである。
しばらくは他愛のない話だった。
昨日飲んだ酒ではどれが旨かった。
どれはもう飲みたくない。
蜂蜜酒は本当に飲んで大丈夫だったのか。
そんなことを話していた信長が、やがて箸を置いた。
「冬明」
「はい」
「惜しいことをしたと思う」
少弐が顔を上げる。
「何がです」
「おぬしを氏治より先に見つけられなかったことだ」
少弐は黙った。
信長は続けた。
「もし余が先におぬしを見いだしておれば――」
少し考え、笑う。
「明智とおぬしを両輪にできた」
「明智殿と?」
「うむ」
信長は指を二本立てた。
「明智には内を任せる。畿内をまとめ、寺社と公家を扱い、国を整えさせる」
もう一本の指を見る。
「おぬしには外だ」
海。
交易。
異国。
朝鮮、明、南蛮。
そして昨日、地球儀で見せてもらった遥か遠い世界。
「余の国の内を明智に。外をおぬしに任せる」
少弐は苦笑した。
「ずいぶん大仕事を押し付けますね」
「できぬとは言わせぬ」
「氏治公のところでも似たようなことをさせられていますよ」
「だから惜しいと言っておる」
信長は笑った。
だが、そこで少し表情を変えた。
「しかしな」
少弐を見る。
「たとえ余がおぬしを先に見つけていたとしても――」
言葉を選んだ。
「今のおぬしには、なっておらぬだろうな」
少弐は意外そうに信長を見た。
「余なら、おぬしを使った」
信長は言った。
「便利にな」
語学。
外交。
交易。
船。
異国についての知識。
人を見る目。
必要なところへ置けば働く男である。
「だが氏治は違ったのであろう」
少弐は何も言わなかった。
「おぬしに好きに歩かせた。好きに見せた。北へ行くと言えば行かせ、海を渡ると言えば船を出した」
信長は昨夜置かれた地球儀のある方角を見る。
「あれだけ世界を歩いた男を、余が作れたとは思わぬ」
少弐はしばらく黙って飯を見ていた。
やがて小さく笑った。
「氏治公は、人使いが荒いだけですよ」
「そういうことにしておけ」
信長も笑った。
それから二人は朝餉を食べ終えた。
少弐が安土を発つ時刻が近づいてくる。
次に会う時がどうなっているのか。
誰にも分からない。
織田と坂東。
昨日だけは忘れていた境界が、城を一歩出れば再び二人の間に戻ってくる。
信長はそれを隠そうとはしなかった。
「冬明」
「はい」
「次に会うときは、また刃を交えているかもしれんな」
「ありえますね」
少弐も否定しなかった。
「そのときは?」
「手加減してください」
「断る」
即答だった。
少弐が笑う。
信長も笑った。
そして信長は言った。
「だがな」
少弐を見る。
「昨日飲んだ酒の味は、余は忘れぬ」
少弐の笑みが少しだけ消えた。
「敵になろうが、味方になろうが、それは別だ」
信長はいつもの調子で笑った。
「ゆえに、おぬしも忘れるな」
少弐は少しの間、信長を見ていた。
やがて頭を下げる。
深い臣下の礼ではない。
友人に別れを告げる程度の、小さな礼だった。
「忘れませんよ」
そして顔を上げる。
「七種類も飲まされたんです。忘れようがない」
「飲ませたのはおぬしだろう」
また二人は笑った。
昨日まで敵だった。
明日には、また敵になるかもしれない。
それでも。
地球儀を回したこと。
知らない国の話をしたこと。
七つの酒を飲んだこと。
オホーツクの海底から拾い上げた蜂蜜酒を二人で分けたこと。
それだけは戦とは別のところに置いておけばよかった。
少弐はシレトクたちを連れ、安土城を後にした。
振り返れば、新しい城の向こうに琵琶湖が広がっていた。
世界の海に比べれば、小さな湖だった。
それでも昨夜だけは、その湖畔から世界中へ行くことができた。




