七つの海、七つ目の酒
天正二年二月――比叡山から安土へ
二月。
少弐冬明は約束どおり支度を整えた。
大人数を連れていくつもりはなかった。
随伴はシレトクと、身の回りを任せる数人だけ。
兵もいらない。
旗もいらない。
持っていくものといえば、丁寧に梱包された地球儀と、兵庫津で揃えた六種類の酒。そして最後まで別にしておいた、小さな一本だけだった。
待ち合わせは比叡山。
少弐はそこで意外な人物を見つけた。
「これはこれは」
「お久しゅうございます、少弐殿」
明智光秀だった。
わざわざ信長が迎えに寄越したのである。
「明智殿が迎えとは、随分と豪勢ですね」
「上様より直々に申し付けられましたので」
光秀はいつもの穏やかな調子で答えた。
少弐もそれ以上は聞かなかった。
昨年までの戦。
山城。
丹波。
羽柴秀吉。
兵庫津。
話そうと思えば、いくらでも話すことはあった。
だが今日はそのために来たのではない。
光秀もそれを承知しているらしく、道中、畿内の情勢には一度も触れなかった。
琵琶湖が見えてくる。
その湖畔近くに、真新しい城が姿を現した。
安土城である。
観音寺城を壊し、そこからさらに琵琶湖を望む湖畔近くへ新造された信長の城だった。
少弐は馬上からしばらく眺めた。
「……広いな」
第一印象はそれだった。
高い山の頂に籠もるための城ではない。
平地へ大きく広がっている。
郭、建物、道、蔵、厩。
何もかもがやたらと広い。
シレトクが小声で聞いた。
「城なのか、これは」
「本人に聞いてみろ」
「嫌だ」
即答だった。
少弐は笑った。
やがて一行は城内へ通された。
さらに少弐が案内されたのは、普通の武家屋敷とは趣の違う広間だった。
「ほう」
思わず声が漏れた。
どこか異国の商館か執務室でも真似たような造りだった。
机。
椅子。
棚。
壁には地図。
南蛮渡来らしい品も置かれている。
そして部屋の一角だけが、不自然なくらい空いていた。
少弐はそこを見る。
信長が言った。
「そこだ」
「何がです?」
「おぬしが持ってくると言った物を置くところだ」
少弐は思わず笑った。
「場所まで空けて待っていたのですか」
「置くところがなければ困るであろう」
「ずいぶん楽しみにしていたようで」
「早く出せ」
まるで子供である。
少弐は家人たちに合図した。
幾重にも包まれていたものが解かれる。
そして地球儀が姿を現した。
信長が立ち上がった。
少弐は地球儀を両手で回した。
「ここが日本です」
「……小さいな」
「小さいですよ」
信長が顔を近づける。
少弐は笑った。
「だから面白いのです」
そこから先は、不思議なくらい話が弾んだ。
畿内のことは話さない。
昨年の戦のことも話さない。
織田と坂東のことも話さない。
今日は世界の話だけだった。
少弐は地球儀を回す。
朝鮮。
明。
琉球。
ルソン。
マカオ。
インド。
遠いポルトガル。
さらに北へ回せば蝦夷、樺太、その向こう。
実際に見た土地については、自分の目で見たものを話した。
見ていない土地については、船乗りや商人、宣教師から聞いた話だと断って話した。
どんな人間がいるのか。
何を食べるのか。
何を着るのか。
どんな船を造るのか。
何を神とするのか。
どんな王が治めているのか。
国がどう興り、どう争ってきたのか。
信長は質問を続けた。
「ここからここまで船でどれほどかかる」
「季節によります」
「この国とこの国は戦をするのか」
「しますね」
「これほど離れていてか」
「海があるからこそ、つながるのですよ」
そんな話をしているうちに酒が出た。
少弐が用意してきた六つの酒である。
「せっかくですから」
一つ目を開ける。
産地を地球儀で指す。
飲む。
その国について話す。
二つ目。
また地球儀を回す。
飲む。
話す。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
六つ目。
酒が進むにつれて、話もくだけていった。
「これは強いな」
「そちらは一気に飲むものではありません」
「先に言え」
「聞かずに飲んだのはそちらでしょう」
シレトクは少し離れたところに座りながら、二人を眺めていた。
つい去年まで敵味方に分かれていた男たちには見えなかった。
少弐もいつしか、信長を織田家の当主として見るのを忘れていた。
信長もまた、少弐を坂東の使者として扱うのを忘れているようだった。
ただ知らない世界の話をする男と、それを聞きたがる男。
そんな時間だった。
六つ目の杯が空になったところで、少弐が言った。
「さて」
信長が地球儀から顔を上げた。
「まだあるのか」
「最後です」
「六つではなかったのか」
「六つ用意したのですが、正月にもう一つ思い出しまして」
少弐は少しだけ得意そうに笑った。
「世界の海を、七つの海などと例えることがあります」
「七つの海」
「ええ。ですから酒も七つにしました」
少弐は荷の中から、小さな瓶を取り出した。
先ほどまでの酒とは明らかに扱いが違う。
ほんのわずかな量しか入っていない。
信長が眉を上げる。
「少ないな」
「貴重なので」
少弐は小瓶を信長の前へ置いた。
「では最後くらい遊びましょう」
「何をする」
「産地を当ててください」
信長が地球儀を見る。
「手掛かりは」
「蜂蜜の酒です」
「蜜の酒か」
「はい」
信長は小瓶を手に取った。
光に透かす。
長い時間を経た液体は、普通の酒とは違う色をしている。
信長は地球儀を回した。
西へ。
「南蛮か」
「違います」
「ならば天竺」
「違います」
「明か」
「違います」
「朝鮮」
「違います」
信長の手が止まった。
「ではどこだ」
少弐は答えなかった。
代わりに立ち上がる。
地球儀へ近づき、信長の手からゆっくり地球儀を回した。
日本を北へ。
蝦夷。
さらに北へ。
樺太。
そして大陸との間へ。
少弐の指が止まった。
「この辺りです」
「……北ではないか」
「ずっと北です」
信長が小瓶を見る。
「そこで造っておるのか」
少弐は首を横に振った。
「造っていた者は知りません」
「何?」
少弐は少し笑った。
「私が見つけたのは、海の底です」
部屋が静かになった。
「海底?」
「はい」
少弐はオホーツクの海を指した。
「ここまで旅をしたとき、沈没船を見つけましてね」
信長の目が、地球儀から小瓶へ移った。
「その沈んだ船の中にあった酒です」
「待て」
「はい」
「いつ沈んだ船だ」
「分かりません」
信長は再び小瓶を見る。
今度は先ほどより慎重だった。
「……これを余に飲ませるのか」
「そのために持ってきました」
「飲めるのか」
少弐は少し考えた。
「私は飲みました」
「だから飲めるのかと聞いておる」
「私はまだ生きています」
信長が吹き出した。
少弐も笑った。
シレトクまで堪えきれず笑った。
しばらくして信長は小瓶を置き、地球儀を回した。
安土から遠く離れたオホーツク。
その海の底から拾い上げられた酒が、いま琵琶湖のほとりにある。
「面白い」
信長は言った。
少弐は杯を二つ用意した。
「では」
小瓶の封を開ける。
「七つ目の海に」
「七つ目の海に」
ほんのわずかな蜂蜜酒が二つの杯へ注がれた。
その日、二人は畿内について最後まで一言も話さなかった。
戦も領地も忘れた。
地球儀を回し、酒を飲み、知らない土地について語った。
敵でも味方でもない。
ただ世界というものが思っていたより遥かに広いことを面白がる二人の男として。
安土の新しい城から見える琵琶湖には、冬の光が静かに反射していた。




