十一月の客――明智光秀
神無月の亥の子に雲丸が生まれてから、およそ一月。
季節は十一月へ移っていた。
ライラとイネス、そして雲丸は有馬へ移り、静かな生活を送っている。
少弐冬明も、さすがに今度ばかりは自重していた。
「……私が行くのは、まずいな」
資料室でそう呟くと、松浦が即座に答えた。
「まずいでしょうな」
「まだ何も言っていないぞ」
「出雲へ行く、と仰る顔をしておられます」
「朝鮮かもしれん」
「もっとまずいでしょう」
少弐は黙った。
雲丸が生まれて、まだ一月である。
ここで再び「吉川殿に本を届けてくる」と出雲へ向かったり、「朝鮮の品を自分で確かめたい」と海を渡ったりすれば、ライラだけではなくイネスにも何を言われるか分からない。
そこで今回は、人に任せることにした。
「渡辺、シレトク。頼む」
二人の前には、いくつもの荷が並べられていた。
朝鮮から届いた軍記物。
山城から集めた『太平記』関係の写本や注釈。
坂東の兵学館から取り寄せた資料。
さらに吉川元春のために仕立てた『北方探訪録』の写本もある。
シレトクがその一冊を持ち上げた。
「これも渡していいんだな?」
「ああ。元春殿には、北方については私自身の記録をまず読んでもらおう。足りないものがあれば、また探す」
そして小早川隆景には、朝鮮から届いた実物を用意した。
刀。
弓。
矢筒。
いずれも献上用に華美に仕立てた新品ではない。
少し古び、実用品らしい傷の残るものを選んである。
「隆景殿には、軍記と照らし合わせて見てもらえ。これはどう使う品なのか、分かる範囲の説明も添えてある」
最後に少弐は一通の書状を渡した。
「それと、これを」
「なんだ?」
「私が行けない理由だ」
シレトクが怪訝そうな顔をする。
「子供が生まれたばかりなのに、また出雲まで行ったら怒られる、と書いてある」
渡辺が笑いを堪えた。
「そのまま書かれたので?」
「下手に格好をつける必要もあるまい」
こうして吉川、小早川への届け物は、渡辺とシレトクに託された。
少弐自身は兵庫津に残った。
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その日の午後。
清盛館に、思いがけない客が訪れた。
「明智殿?」
名を聞いた少弐は、すぐに立ち上がった。
明智光秀。
顔を合わせるのは久しい。
少弐の記憶をたどれば、上洛を巡る戦い以来になるだろうか。
やがて光秀が通された。
以前と変わらぬ物腰だった。
だが互いに、あのころより背負っているものが増えている。
「お久しゅうございます、少弐殿」
「本当に久しいな、明智殿」
しばらく互いの顔を見る。
光秀の方が先に微笑んだ。
「まずは、お子がお生まれになったそうで」
「ああ。男だ」
その一言だけで、少弐の顔が少し緩んだ。
光秀はそれを見逃さなかった。
「これはこれは」
「なんだ」
「いや。少弐殿にもそのような顔がおありなのだと思いまして」
「どういう意味だ」
光秀は答えず笑った。
「祝いの品は、改めて届けさせましょう。今日は何も用意しておりませぬので」
「そんなものは気にするな」
「そういうわけにも参りません」
そして光秀は、少し周囲を見た。
「しかし、お子が生まれたばかりでは何かとお忙しいでしょう。今日は顔を見に参っただけ。これにて失礼いたします」
「待て」
少弐が引き留めた。
「せっかく来たのだ。少しくらい座っていけ」
「よろしいので?」
「有馬にいるのはライラたちだ。私まで産後というわけではない」
「それはそうですが」
「それに――」
少弐は何かを思い出し、立ち上がった。
資料室へ行き、しばらくして小さな包みを持って戻ってきた。
「これを渡そうと思っていた」
光秀が包みを開く。
中に入っていたのは、一本のキセルだった。
「これは……」
「以前、明智殿にはこれが似合うと思って選んだものだ。渡す機会がなかった」
光秀はしばらくキセルを眺めた。
派手ではない。
だが細部まで丁寧に作られている。
「私のために?」
「ああ」
光秀は小さく笑った。
「では、ありがたく」
火を入れる。
少弐も自分のキセルを取り出した。
二人はしばらく何も話さなかった。
清盛館の外から、兵庫津の音が聞こえてくる。
荷を運ぶ声。
遠くの造船所から響く槌。
港へ入る船。
そして時折、海鳥の声。
二人の間を煙だけがゆっくり漂った。
久しぶりに会ったからといって、昔話を急いでする必要もなかった。
少弐はこういう時間を嫌いではない。
光秀も同じらしかった。
やがて光秀が口を開いた。
「実は今日は、もう一つ」
「やはり用があったのではないか」
「私の用というより、殿の用です」
少弐は眉を上げた。
「信長公か」
光秀が頷く。
「安土に城を築いております」
「聞いている」
「そのことで、少弐殿を一度招きたいと」
少弐はキセルを置いた。
「私を?」
「少弐殿が妙な商いをしている、と聞きつけられましてな」
「妙とは失礼な」
「私に言われても困ります」
光秀は笑った。
信長が欲しがっているものも、実に奇妙だった。
一つは、地球儀。
少弐たちが航海や地理の説明に使っているものについて話を聞き、実物を見たいという。
そしてもう一つ。
「変わった酒を所望されています」
「変わった酒?」
「日本の酒ではないものを。できれば何種類か」
少弐は少し考えた。
葡萄酒。
蒸留酒。
馬乳酒。
南蛮や北方を巡れば、酒だけでもかなりの種類がある。
「なるほど」
少弐の商人としての顔が出てきた。
「面白い」
「ただし」
光秀が付け加える。
「急ぐ必要はないとのことです。少弐殿も今は家を空けにくいでしょう」
「ああ」
そこは少弐も素直に認めた。
「年が明けてからで構わぬと?」
「ええ」
少弐は頭の中で予定を組んだ。
雲丸もそのころには少し大きくなっている。
ライラの身体も落ち着いているだろう。
雪や道の具合も考える必要はあるが、準備する時間は十分にある。
「ならば二月にしよう」
「二月?」
「ああ。年明け二月。安土へ行く」
光秀が頷いた。
「では、そのようにお伝えしましょう」
「地球儀はこちらで用意する。酒も私が選ぼう」
「ほどほどになさってください」
「何がだ」
「信長公が面白がるものばかり集めすぎると、帰してもらえなくなるかもしれませぬぞ」
少弐は笑った。
「それは困るな。今度こそ本当に怒られる」
「奥方に?」
「イネスにもだ」
光秀も笑った。
そして二人は、もう一度キセルをふかした。
上洛を巡って世が動いていたころ以来の再会だった。
その間に互いの立場も、世の中も大きく変わった。
少弐には息子が生まれた。
光秀は信長のもとで、さらに大きな仕事を任されるようになった。
そして信長は今、安土に新しい城を築こうとしている。
少弐は煙の向こうに光秀を見た。
次に会うのは、おそらく安土。
年明け二月。
今度は地球儀と、世界各地の酒を持って。
また一つ、新しい旅の予定が決まった。




