雲丸――二つの名を持つ子
亥の子の夜から、数日が過ぎた。
少弐はようやく眠れるようになった。
もっとも、以前のような生活に戻ったわけではない。
資料室で仕事をしていても、気がつけばライラの部屋へ向かっている。
保管庫で書物を探していても、
「そういえば、今日はまだ見ていないな」
などと言って仕事を中断する。
「朝から三回目よ」
ある日、イネスに言われた。
「三回しか来ていない」
「そういう意味じゃない」
ライラは寝床で笑っていた。
その腕の中では、生まれたばかりの男児が眠っている。
母子ともに経過はよかった。
イネスと播磨の産婆たちは引き続き様子を見ていたが、出産直後の疲れを除けば、大きな問題はない。
そこで今度は、別の問題が持ち上がった。
「ところで」
ライラが言った。
「この子、いつまで『この子』なの?」
少弐は黙った。
イネスが振り返る。
「まさか考えてなかったの?」
「……考えてはいた」
「本当に?」
「いくつかは」
少弐は男児の顔を覗き込んだ。
小さい。
亥の子の夜、初めて見たときよりは多少見慣れたものの、まだ触れるにも妙に緊張する。
「名か……」
少弐はしばらく考えた。
自分が帰ってきた道のりが頭に浮かぶ。
厳島。
関門海峡。
美保。
そして、出雲。
出雲大社に滞在し、土地の伝承を聞き、神々の話を集めた。
帰路には周防へ寄り、再び厳島へ戻った。
その長い旅を終えて兵庫津へ帰ってきた直後、この子が生まれた。
しかも神無月である。
「……雲」
「雲?」
ライラが聞き返した。
「ああ。出雲の雲だ」
少弐は笑った。
「私が出雲から帰ってきた途端に生まれた。それに神無月の亥の子だ。ならば出雲から一字もらってもよかろう」
少弐はもう一度、息子を見た。
「雲丸」
口に出してみる。
「雲丸――これを幼名にしよう」
ライラも小さく繰り返した。
「クモマル」
「そうだ」
「クモ……蜘蛛じゃないの?」
「そっちではない。空の雲だ」
イネスが吹き出した。
「ちゃんと書いておかないと、私たちには分からないわね」
少弐は紙を取った。
墨を含ませた筆で、大きく一字を書く。
雲。
「これだ」
ライラはしばらくその字を眺めた。
「出雲の雲……」
「ああ」
「あなたが旅から持って帰ってきた名前なのね」
そう言われると、少弐は少し照れた。
「まあ、そういうことになる」
だが、それだけではなかった。
少弐はもう一枚、紙を取った。
「もう一つ、名をつけたい」
「もう一つ?」
「異国で呼ぶ名だ」
今度はライラが真剣な顔になった。
少弐は以前から考えていた名を口にした。
「サラーフ」
ライラの表情が変わった。
「……サラーフ?」
「ああ」
少弐は頷いた。
「サラーフ・アッ=ディーンの、サラーフだ」
ライラには、その意味がすぐ分かった。
遠い西方。
イスラームの地で名を残したサラーフ・アッ=ディーン。
西洋ではサラディンと呼ばれる英雄。
「あなたが、その名を選ぶの?」
「悪いか?」
「悪くない。ただ……意外だっただけ」
少弐は眠っている息子へ目を落とした。
「この子は私の子であると同時に、お前の子だ」
日本だけで生きるとは限らない。
ポルトガルの者と話すかもしれない。
モロッコの者と会うかもしれない。
さらに遠い土地へ行くかもしれない。
父親自身がそうしてきたのだから、息子だけに一つの世界を押しつける必要もないだろう。
「こちらでは雲丸」
少弐は言った。
「異国ではサラーフ」
ライラは腕の中の子を見つめた。
そして、小さく呼んだ。
「サラーフ」
男児は眠ったままだった。
今度は少弐が呼ぶ。
「雲丸」
やはり反応はない。
イネスが笑った。
「本人はどちらでもいいみたい」
「まだ分からんだけだ」
「当然でしょう」
ライラも笑った。
こうして、亥の子の夜に生まれた男児は二つの名を持った。
日本での幼名は――雲丸。
異国の名は――サラーフ。
父が旅してきた東の果てと、母につながる西の世界。
その二つが、生まれたばかりの小さな身体の上で一つになった。
---
それからしばらくして。
ライラの身体が十分に落ち着いたことをイネスと産婆たちが確認すると、少弐は母子を兵庫津に置き続けないことにした。
行き先は有馬だった。
兵庫津はいまや、あまりにも騒がしい。
商船が入る。
荷車が走る。
造船所では朝から槌が鳴る。
商人、船乗り、職人、兵、旅人が絶えず行き交う。
町が急激に成長している証ではあったが、産後のライラと生まれたばかりの雲丸が静養する場所としては、少々賑やかすぎた。
対して有馬なら、兵庫津からそれほど遠くない。
湯もある。
山に囲まれ、静かだった。
何より、何かあれば少弐自身がすぐに向かえる。
移動の日も急がなかった。
雲丸を十分に包み、ライラの身体に負担がかからないよう休みを入れながら進む。
そして主治医として、イネスも同行した。
「私まで行くの?」
「当たり前だ」
「西国にも連れていったでしょう」
「だから今度も頼む」
「便利に使ってるわね」
そう言いながらも、イネスに断るつもりはなかった。
ライラの産後の経過を見る必要がある。
雲丸の成長も診たい。
そして播磨の産婆たちから聞き取った、日本の妊娠、出産、産後の習俗について整理する時間も欲しかった。
「有馬なら静かに書けそうね」
「結局お前も仕事をするのではないか」
「あなたにだけは言われたくない」
兵庫津を離れ、有馬へ向かう。
今度は少弐は同行しなかった。
兵庫津には仕事が山ほど残っている。
病院。
蔵。
造船所。
清盛館。
吉川と小早川から頼まれた品々。
そして書き始めたばかりの『義経演義』。
少弐は見送りながら、ライラに念を押した。
「何かあったら、すぐ文を寄越せ」
「分かってる」
「雲丸に何かあってもだ」
「分かってるって」
「イネス」
「はいはい。毎日ちゃんと診ます」
「毎日でなくとも――」
「どっちなのよ」
少弐は言葉に詰まった。
ライラが笑う。
その腕の中で、雲丸――サラーフは何も知らず眠っていた。
こうして三人は有馬へ移った。
ライラは身体を休める。
イネスは母子を診ながら、日本で集めた出産習俗の記録を整理する。
そして雲丸は、山間の静かな土地で生まれて最初の冬を迎えることになった。
一方、兵庫津へ戻った少弐の机には、以前と変わらず書物と書状が積み上がっていた。
ただ一つ変わったのは、その机の端に、
「雲丸」
と試し書きした紙が、捨てられずに残されていたことだった。




