亥の子の産声
天正元年、神無月。
その日は朝から、兵庫津のあちこちで亥の子の話が聞こえていた。
少弐も、この日が亥の子であることは知っていた。
播磨の産婆たちは、猪は子を多く産むゆえ、子孫繁栄には縁起のよい日だと話していた。イネスは例によって、その話を聞くなり帳面を取り出している。
「猪がたくさん子を産むから?」
「左様でございます」
「それで子供の無事を願うのね」
「まあ、そのようなもので」
「面白い」
イネスの帳面には、すでに日本の妊娠や出産にまつわる習俗が何頁にもわたって記されていた。
少弐はその横を通りながら、
「今日は亥の子か」
と呟いただけだった。
この時までは、それが自分にとって忘れられない日になるとは思っていなかった。
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夜になった。
少弐はいつものように資料室にいた。
吉川元春へ贈る『北方探訪録』の写本についての指示書を確認し、その横には書きかけの『義経演義』の構想が置かれている。
そろそろライラのところへ顔を出してから寝よう。
そう思っていたところだった。
廊下を走る足音がした。
少弐は顔を上げた。
「殿!」
また松浦だった。
「今度はなんだ」
「奥方が!」
少弐は一瞬、以前の騒ぎを思い出した。
「……また寝苦しいとかではないだろうな」
「違います! 今度こそ本当に御産です!」
少弐は立ち上がった。
「イネスは?」
「もうついております!」
筆を放り出した。
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産所では、すでにイネスと播磨の産婆たちが動いていた。
湯が運ばれ、清潔な布が用意される。
ライラの様子を診たイネスは、今度ははっきり言った。
「始まったわ」
「今夜か?」
「今夜とは限らない。朝になるかもしれない。でも、もう始まってる」
少弐はライラのところへ行こうとした。
ところが産婆の一人に止められた。
「殿方は、こちらでお待ちを」
「私は気にしないぞ」
「殿が気になさらなくても、こちらが気にいたします」
「……なるほど」
それには反論できなかった。
ライラ本人にも、
「邪魔だから待ってて」
と言われた。
「はい」
結局、少弐は産所のすぐ近くで待つことになった。
だが、これが辛かった。
戦なら自分で動ける。
嵐なら船を操る者に命令できる。
外交なら話せる。
病なら医師を探すこともできる。
しかし今は何もできない。
ただ待つしかない。
少弐は資料室へ戻った。
筆を持った。
一行も書けなかった。
保管庫へ行った。
何を取りに来たのか忘れた。
清盛館へ移った。
落ち着かなかった。
結局また産所の近くへ戻ってきた。
「……何をしているんだ、私は」
松浦が答えた。
「皆、そのようなものでは?」
「お前に分かるのか」
「少なくとも、殿が今夜仕事にならぬことくらいは分かります」
夜は長かった。
ときおりイネスが出てきて、経過を伝える。
「大丈夫。順調よ」
その言葉を聞くたび、少弐はうなずいた。
それでも、しばらくするとまた不安になる。
夜半を過ぎた。
兵庫津の町も静まり返った。
港から聞こえていた物音も少なくなり、遠くで波が岸を打つ音だけが続いている。
そして夜もずいぶん深くなったころ――。
産所から声が聞こえた。
続いて、慌ただしく人が動く。
少弐は立ち上がった。
やがて――。
小さな声が響いた。
産声だった。
少弐は動かなかった。
いや、動けなかった。
もう一度、声がする。
確かに子供の声だった。
しばらくしてイネスが姿を現した。
疲れていた。
だが、笑っていた。
「冬明」
少弐は何も言えず、ただイネスを見る。
「男の子よ」
「……ライラは?」
「大丈夫」
それを聞いた瞬間、少弐は大きく息を吐いた。
自分がいつから息を詰めていたのか、それすら分からなかった。
「会えるか」
「少し待って」
それからしばらくして、ようやく少弐は中へ通された。
夜三時ほど。
ライラは疲れ果てていた。
そのそばに、小さな男児がいる。
少弐は近づいた。
あまりに小さい。
これまで何千という兵を見てきた。
巨大な船を見た。
北の海で鯨を見た。
異国の王都も歩いた。
だが、その小さな身体を前にすると、どうしていいのか分からなかった。
「……これが」
声が震えた。
ライラが疲れた顔で笑った。
「あなたの子よ」
「分かっている」
「じゃあ、そんな顔しないで」
「どんな顔だ」
「泣きそう」
「泣いてはいない」
そう言いながら、少弐は目元を拭った。
イネスは何も言わなかった。
ただ、その様子を見て笑っていた。
播磨の産婆の一人が、小さく言った。
「亥の子の日に、男のお子でございますな」
少弐は振り返った。
「ああ……そうだった」
亥の子。
子を多く産む猪にあやかり、子孫繁栄を願う日。
朝にはただの暦の一日だった。
だが、もう二度と忘れない日になった。
少弐はもう一度、息子を見た。
「よく来たな」
それだけ言った。
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当然、その夜は眠れなかった。
興奮が収まらない。
少し横になってみたものの、目を閉じれば先ほどの産声が蘇る。
結局、夜が明ける前には起き出してしまった。
朝になる。
またライラと子供を見に行く。
「寝たの?」
イネスに聞かれた。
「いや」
「寝なさい」
「眠れん」
「子供じゃないんだから」
そう言われても眠れなかった。
資料室へ戻る。
昨日まで気になって仕方なかった『太平記』の注釈も、朝鮮の軍記も、『義経演義』も、今日はまるで頭に入らない。
保管庫へ行く。
意味もなく整理する。
清盛館へ行く。
人に会うたび、
「生まれた」
と自分から言ってしまう。
「存じております」
と何度言われても、また誰かに話した。
昼になった。
またライラのところへ行った。
「また来たの?」
「ああ」
「さっきもいたでしょう」
「ああ」
「仕事は?」
「今日は無理だ」
ライラが笑った。
少弐も笑った。
そうして一日が過ぎた。
一睡もしないまま、妙に身体だけは軽かった。
夕方、少弐は兵庫津の海を眺めた。
昨日までと何も変わらない。
船が入り、荷が運ばれ、造船所から槌の音が響いている。
病院には人が出入りし、蔵にはまた荷が積み上がっていく。
兵庫津は昨日と同じように動いていた。
けれど少弐にとっては、昨日までとはまるで違う町になっていた。
神無月、亥の子。
夜三時ほど。
この兵庫津で、一人の男児が生まれた。
少弐はキセルに火を入れた。
一口吸って、海へ煙を吐く。
そして、誰もいないのを確認してから、小さく笑った。
「……父親か」
その言葉が妙に嬉しくて、少弐はもう一度笑った。




