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兵庫津を出ない男

それから少弐は、本当に兵庫津を出なくなった。

もっとも、仕事をやめたわけではない。

むしろ自分が動けないぶん、人を動かした。

吉川元春の求める『太平記』の欠巻や注釈については渡辺に命じ、吉田兄弟へ問い合わせる書状を持たせた。念のため霞浦の兵学館にも照会を出し、所蔵する写本や講義資料まで洗わせる。

朝鮮の軍記については松浦に任せた。

商館にいる香川へ文を送り、朝鮮の軍記物を集めさせる。

さらに小早川隆景には、兄が読む軍記に登場するような実物を用意する。

朝鮮の刀、弓、矢筒。

華美な贈答品ではなく、できれば実際に使われ、少し古びたものがよい。その武具がどのように使われるものなのか、由来や現地での話まで聞けるなら記録しておけ、と付け加えた。

北方についてはシレトクである。

「私の『北方探訪録』を写してくれ」

「全部か?」

「全部だ。ただし急がなくていい」

航路や地理だけではなく、コタンで聞いた戦話、北方の武具、狩猟、争い、長たちとの会話まで含める。

吉川に渡す一冊なのだから、単なる写本にはしたくなかった。

「表紙も凝ってくれ。北の本だと一目で分かるようなものがいい」

シレトクは少し考えてから、

「それなら俺に任せろ」

と引き受けた。

『義経演義』と田村麻呂の軍記については、少弐自身が構想を練ることにした。

そうして仕事を割り振ってしまえば、少弐自身が兵庫津を離れる必要はない。

できるだけ資料室。

あるいは隣の保管庫。

人と会う必要があれば清盛館。

仕事場はその三か所に絞った。

そして一つ仕事を終えるたび、あるいは筆が止まったときには、ライラのところへ顔を出すようになった。

「今日はどうだ?」

「昨日と同じ」

「腰は?」

「重い」

「眠れたか?」

「あなたが夜中に何度も覗きに来なければ、もう少し眠れたかも」

「……それはすまなかった」

そんな会話をして、少し話し、また仕事へ戻る。

何か特別なことをするわけではない。

ただ、そばにいる。

それが少弐なりの埋め合わせだった。

兵庫津に留まったことで、少弐には思いがけず別のものを見る時間ができた。

自分たちが作ってきた町そのものだった。

まず鷺屋に任せていた病院へ顔を出した。

診療はすでに日常のものになっている。

港で怪我をした水夫。

造船所で手を傷めた職人。

熱を出した商人の子。

遠国から船で運ばれてきた病人。

当初は「異国式の医療を行う珍しい場所」として見られていた病院が、いまでは兵庫津で暮らす者にとって、具合が悪くなれば行く場所の一つになっていた。

鷺屋から帳面を見せられ、少弐は何度もうなずいた。

「順調だな」

「順調すぎます」

「どういうことだ?」

「人が増えすぎました」

病院だけではなかった。

兵庫津の蔵も同じだった。

少弐たちは港の発展を見越して、かなり余裕を持たせて蔵を建てたつもりだった。

ところが実際に商いが膨らみ始めると、その余裕があっという間に消えた。

米。

塩。

材木。

鉄。

薬種。

陶磁器。

紙。

酒。

各地から運ばれてくる品々が、次々と蔵へ吸い込まれていく。

「これでも足りんのか」

「足りませぬ」

「増やしたばかりではなかったか?」

「増やしたから、さらに商人が来ました」

「……そういうものか」

少弐は腕を組んだ。

港に蔵がある。

だから商人が来る。

商人が来るから荷が増える。

荷が増えるから蔵が足りなくなる。

増築すれば、また別の商人がやってくる。

自分たちが予想していた成長を、兵庫津そのものが追い越し始めていた。

そして最も凄まじかったのが、海老屋の造船所だった。

槌の音が絶えない。

船台には建造中の船体が並び、材木が山のように積まれ、職人や徒弟が蟻のように行き交っている。

大掾は、中央から回された金をここへ惜しげもなく突っ込んでいた。

軍船だけではない。

商船。

輸送船。

港内で使う小船。

修繕施設。

船材を乾燥させる場所。

帆や縄を作る工房。

一つの造船所を大きくしたというより、船を中心に一つの町が生まれようとしていた。

少弐はしばらく黙って、その光景を眺めていた。

かつて自分たちが兵庫津を押さえたころ、ここまで急激に膨らむとは予想していなかった。

兵庫津から須磨、有馬へと道を整えた。

蔵を作った。

病院を置いた。

商館を招いた。

造船所へ金を入れた。

軍港として整えた。

それぞれ別々に打った手だった。

ところが今、それらが互いを呼び込み始めている。

船が増えるから商人が来る。

商人が来るから蔵が増える。

人が増えるから病院が必要になる。

荷が増えるからさらに船が必要になる。

船を造るために職人が集まり、職人を相手にする店ができ、その店へ品物を運ぶ商人がまた増える。

少弐はキセルを取り出した。

「……神戸、か」

まだ後世の巨大な港町ではない。

兵庫津である。

だが少弐の目の前にあるものは、もはや単なる一つの港ではなかった。

当初の予想を上回る速さで、人と金と船を吸い込みながら膨張する都市だった。

「蔵が足りないわけだ」

少弐は煙を吐いた。

海老屋の造船所から、また大きな槌の音が響いた。

その日の夕方。

少弐は資料室へ戻る前に、またライラの部屋へ寄った。

「今日はどこへ行ってたの?」

「兵庫津からは出ていないぞ」

「それは聞いてない」

「……病院と蔵と造船所を見てきた」

ライラは呆れた顔をした。

「じっとしていられないの?」

「兵庫津からは出ていない」

「二回言わなくていい」

少弐は笑いながら、ライラのそばに腰を下ろした。

そして今日見てきたものを、一つずつ話した。

病院が順調だったこと。

蔵がもう足りなくなっていること。

海老屋の造船所が、とんでもない勢いで大きくなっていること。

自分たちが想像していた以上に、この町が成長していること。

ライラは横になったまま、それを聞いていた。

「あなたが旅をしている間にも、町は勝手に大きくなるのね」

「そうらしい」

「じゃあ、少しくらいここにいても大丈夫じゃない?」

少弐は一瞬黙った。

「……そういうことになるな」

「だったら、しばらくそうしてなさい」

少弐は苦笑し、うなずいた。

外では港が膨らみ続けている。

資料室には仕事が山積みになっている。

そしてこの部屋では、もう一つ、新しい命が生まれようとしている。

今しばらくは、兵庫津から出る理由などなかった。

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