海風の中で――兄弟への土産
少弐は、こっそり資料室を抜け出した。
遠出をするなとは言われている。
ならば兵庫津の海を見るくらいは遠出ではあるまい――というのが少弐の理屈だった。
港まで出ると、秋の海風が頬を撫でた。
少弐は人気の少ない場所に腰を下ろし、キセルに火を入れた。
「さて……」
煙を吐きながら考える。
西国から帰って以来、頭の片隅に引っかかっているものがあった。
吉川元春と小早川隆景、毛利の兄弟から頼まれた品々である。
まず兄の吉川元春。
欲しがったのは、やはり本だった。
『太平記』の欠けている箇所。そして自分が注釈をまとめるために、まだ読んだことのない他者の注釈書が欲しいという。
「これは吉田兄弟に頼めばいいな」
京の学問に通じた吉田兄弟へ文を出す。
それだけでは取りこぼしがあるかもしれないから、保険として霞浦の兵学館にも問い合わせる。所蔵する写本や注釈、講義用の資料まで調べさせれば、吉川がまだ持っていないものが何かしら出てくるだろう。
さらに吉川は朝鮮や北方の軍記にも興味を示していた。
「朝鮮なら……香川だな」
四国戦乱で敗将となった後、商人へ転じた香川が商館にいる。
朝鮮へ渡る商人たちの伝手も使える。
朝鮮の軍記物を探してほしい――。
そこまで考えて、少弐は首を振った。
刀や弓を欲しがったのは吉川ではない。
弟の小早川隆景だった。
兄が異国の軍記を読みたがっているのを横で聞いていた隆景が、別のことを言い出したのである。
――兄上が本なら、私は実物が欲しい。
軍記に描かれているような異国の刀や弓。
できれば飾り物ではなく、本当にかの国で使われているもの。
少弐は思い出して笑った。
「いかにも隆景殿らしい」
そこで香川への書状には、二つの注文を書くことにした。
吉川元春のためには、朝鮮の戦や武将について記した軍記物を探すこと。
小早川隆景のためには、その軍記に登場するような朝鮮の刀、弓、矢筒などの実物を集めること。
ただし新品の贈答品はいらない。
「少し古ぼけたものがいい」
実際に使われていたもの。
傷がある。
握りに癖がついている。
弓ならば現地で普通に使われる形が分かるもの。
さらに、その品がどう使われるのか説明できる者がいれば、話まで聞いて書き留めさせる。
豪華な献上品を一振り持っていくより、そのほうが隆景は喜ぶはずだった。
「軍記のこの武将が持っている刀は、こういうものです――と並べられれば一番いいな」
兄には物語。
弟には、その物語の中から抜け出してきたような実物。
並べて渡せば、毛利兄弟らしい贈り物になる。
そして北方については、自分が持っている。
室蘭から宗谷、樺太、さらに北へ。
各地で聞いた戦の話、武器、衣服、地形、航路。
少弐自身の『北方探訪録』である。
「これは写本を作ろう」
シレトクへ指示を出し、戦や武具に関係する記録を中心に一部写させる。
ただ写すだけでは味気ない。
表紙も北方らしい意匠を凝らしたものにする。
吉川元春が欲しがった「北方の軍記」とは少し違うが、実際にその土地を歩いた人間の記録なのだから、むしろ資料としては面白いだろう。
そこで少弐はキセルを口から離した。
「……待てよ」
もう二つ、思いついた。
一つは坂上田村麻呂。
東国を歩けば、田村麻呂にまつわる話はいくらでも出てくる。
蝦夷。
悪路王。
山の鬼。
大蛇。
土地の物の怪。
寺社縁起や土地の伝承では、それらが入り混じって語られていた。
ならば、それを一つの軍記として再編してみればいい。
史実をそのまま書くのではない。
東国各地の伝承を集め、「蝦夷や物の怪を調伏しながら東国を征く田村麻呂」の物語として組み直す。
吉川元春ならば喜んで読むだろう。
そして、もう一つ。
「義経……」
平泉で聞いた話を思い出した。
源義経は平泉で死んでいない。
さらに北へ逃れた。
海を越えた。
そして韃靼の地へ渡り、そこで再起した――。
もちろん史実ではない。
だから面白い。
「いっそ一代記にしてしまおう」
牛若丸から始める。
鞍馬。
奥州。
源平合戦。
頼朝との対立。
逃避行。
そして平泉。
だが、そこで物語を終わらせない。
密かに北へ逃れ、蝦夷地へ渡る。
さらに海を越え、少弐自身が歩いた北方世界を進み、ついには韃靼へ至る。
史実。
東国で集めた義経伝承。
北方で少弐自身が見聞した風俗。
そして創作。
すべて混ぜる。
「題は……『義経演義』でいいか」
少弐は笑った。
最初から「演義」としてしまえばいい。
史書ではない。
虚実を織り交ぜた軍記物として読ませるのである。
しかも北方部分の地理や船、寒さ、食事、土地の人々については、少弐自身の旅行記を土台にできる。
荒唐無稽な話なのに、北へ行けば行くほど妙に描写だけは具体的になる。
「元春殿は、どこから嘘なのか探し始めるかもしれんな」
それも面白い。
そして隆景には、兄がその軍記を読んでいる横で、朝鮮の古びた刀や弓を実際に触ってもらえばいい。
少弐はもう一度キセルを吸った。
吉川には、本。
小早川には、本の中に出てくるような実物。
同じ兄弟でも、欲しがるものは違う。
だから贈る側も、同じものを用意する必要はない。
白い煙が兵庫津の秋風にさらわれていった。
「……さて、帰るか」
そろそろ資料室へ戻らなければ、本当に怒られる。
少弐は立ち上がった。
西国から帰ってきたばかりだというのに、頭の中ではすでに京、霞浦、朝鮮、北方へと何通もの書状が飛び始めていた。




