殿、奥方が!
十月上旬。
西国から戻った少弐冬明は、まだライラの出産までは多少の間があると思っていた。
厳島から美保へ渡り、出雲大社に滞在し、帰路には周防へ寄った。予定以上に長い旅にはなったものの、それでも間に合った――その程度の認識だった。
しかも今回は、医師であるイネスまで少弐の旅に同行していた。
本人は出雲や周防で得られる薬草や民間療法、土地の習俗を記録できたことを喜んでいたが、その間、ライラの様子を直接診ていたわけではない。
屋敷へ戻るなり、少弐はその認識が甘かったことを思い知らされた。
「殿!」
荷を下ろしているところへ、松浦が駆けてきた。
「なんだ、騒々しい」
「奥方が!」
少弐の顔色が変わった。
「ライラがどうした!」
「それが、その……!」
「産気づいたのか!?」
イネスも荷物を放り出すようにして振り返った。
「ライラに何かあったの?」
「と、とにかくお越しくだされ!」
少弐とイネスは、そのまま屋敷の奥へ急いだ。
ところが――。
「……なんだ。普通にいるじゃないか」
「普通じゃない!」
寝床からライラの声が飛んできた。
腹は、少弐が出立したころとは比べものにならないほど大きくなっていた。
横になるにも姿勢が定まらないらしく、背や腰の後ろには何枚もの布団や枕が入れられている。
少弐が想像していたより、ずっと「もうすぐ母になる身体」になっていた。
イネスはすぐにライラのそばへ行った。
「痛みは?」
「ずっと痛いわけじゃない。重い。腰もつらい。それに眠れない」
「出血は?」
「ない」
「お腹が急に硬くなることは?」
「たまに。でもすぐ戻る」
イネスの表情から緊張が少し抜けた。
「……松浦」
「はい」
「『奥方が!』なんて叫ぶから、生まれるのかと思ったでしょう」
「いや、しかし先生! 日に日に腹は大きくなるし、夜も眠れぬと申されるし――」
「それは確かに注意して見なきゃいけない。でも、今すぐ生まれるという感じではないわ」
少弐も胸を撫で下ろした。
「なんだ。では、まだ先か」
その瞬間だった。
「あなたも安心しない」
今度は少弐がイネスに叱られた。
「え?」
「『まだ先か』じゃないの」
久しぶりに診察する以上、イネスは念入りだった。
脈を取り、熱を確かめ、食事や睡眠について聞き、腹の様子も慎重に診る。播磨から来ていた産婆たちからも、この数か月の経過を一つずつ聞き取った。
幸い、差し迫った異常があるわけではなかった。
腹が大きくなったために寝苦しい。
腰や脚への負担が増えている。
一度にたくさん食べると苦しい。
夜中に何度も目を覚ます。
長く同じ姿勢でいることがつらい。
そうした妊娠後期に伴う不調が重なっているらしい。
「今のところ、すぐに御産という様子ではないわ」
イネスがそう告げると、松浦が大きく息を吐いた。
「だからといって放っておいてよい、という意味でもないけど」
「はい……」
なぜか松浦まで叱られている。
そしてイネスは少弐を見る。
「あなたも」
「私もか」
「むしろあなたよ。いつまで出歩いてるつもりだったの?」
「いや、帰ってきたではないか」
「予定より遅れて」
「……はい」
「しかも私まで連れて」
「……それについては申し訳ない」
そこは少弐も反論できなかった。
ライラは枕にもたれながら、その様子を見て笑っている。
「私は大丈夫だと言ったんだけど」
「あなたの『大丈夫』も信用しすぎちゃ駄目なの」
「私まで怒られた」
「二人ともよ」
イネスはそう言ってから、ようやく笑った。
「まだ少し先だと思う。でも、これからは遠くへ行かないこと。私もここにいる。何か変わったことがあればすぐ知らせて」
少弐はうなずいた。
「分かった。では私は資料室と保管庫で仕事をする。そこならすぐ来られる」
「それならいいわ」
「……出雲の記録が山ほどあるんだ」
「知ってる。私も一緒に行ったもの」
そうだった、と少弐は頭を掻いた。
ひとまず大事ではなかった。
しかし帰宅早々の「殿、奥方が!」で、少弐の頭から西国旅行の余韻は完全に吹き飛んでいた。
その日から、少弐は屋敷の資料室と保管庫を仕事場にした。
そしてイネスはライラの主治医として再び付き添いながら、播磨から来ていた産婆たちに、この国の妊娠と出産について尋ね始めることになる。
医師として万全を期すため。
そしてもう一つ。
異国の女医である彼女にとって、日本の女たちが何世代にもわたって受け継いできた「産むための知恵」は、それ自体が記録するに値する未知の世界だった。




