弟の頼み――周防の寺と隆景の居室
出雲大社には、そのまま数日滞在した。
少弐冬明は急がなかった。
朝になれば境内を歩き、神職に話を聞く。
昼には古い記録を見せてもらい、土地に伝わる話を聞き取る。
夜になれば、その日の話を帳面へ整理する。
国譲り。
大国主大神。
須佐之男命。
八岐大蛇。
古い社殿。
祭礼。
神々がどこから来て、どこへ去ったと伝えられているのか。
同じ話でも人によって細部が違えば、それも書いた。
どちらが正しいかを決める必要はない。
この土地では、こう語る者がいた。
それを残せばよい。
そして少弐は、最後まで現在の出雲について無理に聞こうとはしなかった。
吉川元春から頼まれた『太平記』の欠本や注釈書については、別の帳面にきちんと控えた。
朝鮮や北方の軍記物についても同様である。
帰れば探す。
見つかれば、また出雲へ来ればいい。
少弐が欲しかったものは、すでに手に入り始めていた。
次に来る理由。
それで十分だった。
やがて一行は大社を辞した。
美保を経由し、そこから再び海路を西へ向かう。
温泉津から美保まで調べてきた海岸を、今度は逆向きに眺める。
往路に作った海図には、帰路で気づいたことがさらに書き込まれた。
同じ海でも、反対から通れば見え方が違う。
岬の見え方。
山の重なり。
船から見つけやすい目印。
潮。
風。
停泊に向く場所。
少弐は暇さえあれば甲板に出て、それを書き足した。
そして一行は長門を回り、再び瀬戸内へ入った。
ここから安芸へ直行するのかと思われたが、小早川隆景の計らいで、途中周防へ立ち寄ることになった。
その夜は岩国周辺でも名の知られた寺社に宿を借りた。
少弐はここでも同じだった。
「今宵、宿をお貸しいただきありがとうございます」
包みを差し出す。
中には香木が入っていた。
美保の仏谷寺でもそうした。
出雲でも相応の品を奉った。
今回も旅の前から、寺社に世話になることを見越していくつか用意してきたものだった。
「仏前にでもお使いください」
少弐はそう言って頭を下げた。
そして夕餉が終われば、また帳面が出てくる。
「この辺りにも、古い話はございますか」
僧や社人たちも、もう少弐の好みを知れば話は早い。
岩国周辺の山。
川。
古い社寺。
土地に残る怪異。
そして話題の一つとして出てきたのが、蛇だった。
「大蛇ですか?」
少弐の筆が止まる。
出雲では八岐大蛇を聞いてきたばかりである。
岩国でも蛇にまつわる話があるという。
山や川に現れる蛇。
神の使いとされる蛇。
土地を守るものとして語られる蛇。
少弐は面白がった。
「出雲では大蛇、こちらへ来ても蛇か」
そして伝承を一つずつ聞き取っていった。
どこに現れたというのか。
白いのか、黒いのか。
大きさは。
人を襲うのか。
神聖なものなのか。
いつ頃から語られているのか。
同じ話を知る者は他にもいるのか。
単に「岩国には蛇の伝承がある」と書いて終わらない。
できる限り話の形をそのまま残す。
清盛館の資料室には、こうしてまた新しい土地の記録が加わることになった。
その夜。
寺社から戻る途中、小早川隆景がぽつりと言った。
「兄上はよいですな」
少弐が振り向く。
「吉川殿が?」
「父上も」
「元就公?」
「父上は以前、少弐殿から珍しい品をいただいておられたでしょう」
「ええ」
「兄上も今回、『太平記』だの朝鮮の軍記だのと頼んだ」
隆景は少し不満そうだった。
「皆、欲しいものばかり揃えてもらえる」
少弐は足を止めた。
しばらく隆景を見る。
それから、わずかに笑った。
「して」
隆景が見る。
「隆景殿よ」
「はい」
「御用向きは?」
隆景が黙った。
どうやら、まったく何もないわけではないらしい。
「……少々」
「では伺いましょう」
「いや」
隆景は考えた。
「口で説明するより、見てもらった方が早いでしょう」
「見せたいものが?」
「明日、私のところへ来てください」
翌日。
少弐は隆景の居城へ招かれた。
しかも通されたのは、客を迎えるための広間ではなかった。
隆景自身が普段使っている居室だった。
「こちらへ」
「随分奥まで通されましたな」
「見てもらった方が早いと言ったでしょう」
部屋には書物がある。
文箱。
筆。
硯。
日常使いの道具が並んでいる。
壁際には武具もあった。
隆景は茶を用意させると、一つの硯を取り出した。
新品ではない。
むしろ逆だった。
使い込まれている。
「これです」
少弐が手に取る。
「随分使われていますね」
「普段使っているものです」
縁には細かな傷がある。
長く墨を磨ってきた跡もある。
隆景は言った。
「以前、父上が少弐殿よりいただいた硯を見ました」
少弐も覚えていた。
「あれを見て思いましてな」
「同じものが欲しい?」
「いや」
隆景は首を振った。
「私に合うものが欲しい。」
少弐が隆景を見る。
「飾るための硯ではありません。毎日使うものです」
なるほど。
だから使い古した硯を見せたのか。
大きさ。
深さ。
墨を磨る場所。
普段どれほどの量を書くのか。
少弐に実物を見せれば、自分が何を好んでいるか伝わる。
「硯だけですか?」
「できれば筆も」
「紙は?」
「それも面白いものがあれば」
少弐はすでに硯を裏返していた。
「分かりました。探してみましょう」
隆景は少し満足そうに茶を飲んだ。
だが、まだ終わりではなかった。
「それと」
立ち上がる。
「こちらも見ていただきたい」
案内された先には、刀があった。
隆景が一振りを取る。
「備前です」
次を示す。
「こちらは山城」
少弐も近寄った。
いずれも立派なものだった。
隆景は刀を自慢したいわけではないらしい。
「こういうものは、我らでも目にする機会があります」
「でしょうな」
「良い刀です。もちろん好きですよ」
隆景は刀を戻した。
「ですが少弐殿」
「はい」
「あなたは遠くへ行かれる」
少弐は何となく話が見えてきた。
「日本の刀ではないものを?」
隆景が笑った。
「さすがに早い」
「どの辺りのものを?」
「それが分からないから頼むのです」
隆景は座り直した。
「南蛮でもよい。朝鮮でもよい。もっと遠い国でもよい」
そして付け加えた。
「異国の刀が欲しい。」
少弐は頷いた。
これは確かに隆景自身では探しにくい。
「飾り物?」
「できれば実用品を」
「なるほど」
「それから――」
まだあるらしい。
「弓です」
少弐が目を細めた。
「異国の弓?」
「はい」
日本の弓とは違うもの。
短いものでもいい。
形の変わったものでもいい。
馬上で使うものでもいい。
どのような国の者が、どのような弓を使うのか。
それを実物で見てみたいという。
「刀はともかく、弓までとは」
「兄上が朝鮮や北方の軍記を欲しがったでしょう」
隆景は笑った。
「なら私は、そこに出てくる者が実際に使う道具を見たい」
少弐も笑った。
「兄弟ですな」
「一緒にしないでいただきたい」
「よく似ていますよ」
「似ておりません」
そこへ茶が運ばれてきた。
二人はしばらく茶を飲みながら話した。
少弐は改めて確認する。
普段使いの硯。
筆。
面白い紙があれば、それも。
異国の刀。
異国の弓。
「原産地についての記録も必要ですか?」
隆景が少し考える。
「できれば」
「誰が使うものかも?」
「分かるなら」
「使い方も?」
「ぜひ」
少弐は笑った。
「注文が増えましたな」
「少弐殿なら聞くと思いましたので」
今度は隆景が笑う。
少弐は帳面へ書いた。
小早川隆景殿御用。
一、日用の硯。現用品を参考とすること。
一、筆。
一、異国の刀。実用のもの。
一、異国の弓。由来・使用法を添えること。
少弐は筆を止めた。
「承りました」
隆景が茶碗を置く。
「急ぎません」
「それが一番ありがたい」
「父上や兄上より後でも構いませぬ」
「それは保証できませんな」
「なぜです?」
少弐は笑った。
「こういうものは、探した順番ではなく、出会った順番に見つかるものですから。」
元就には元就の欲しいものがある。
元春には書物がある。
隆景には硯と異国の武具がある。
大社にも、これから何か頼まれるかもしれない。
少弐は居室を出ながら思った。
旅をすればするほど、帰る場所が増える。
そして同時に、
もう一度訪ねる理由も増えていく。
それこそが、少弐冬明が各地で集めている品々より、はるかに価値のあるものだった。




