酒を提げてきた男――吉川元春の頼み
その日の少弐冬明たちは、出雲大社に宿を借りることになった。
一晩だけではない。
大社の由緒や祭礼、土地に残る伝承を調べるため、数日の滞在を願い出ていた。
少弐も、ただ泊めてもらうつもりではなかった。
出雲へ向かうと決めた時から、大社について自分なりに調べている。
どのような神を祀るのか。
どのような伝承があるのか。
何を奉れば喜ばれるか。
そこで少弐が用意してきたのが、刀と香だった。
もっとも刀は、ただ高価な名刀を選んだわけではない。
出雲という土地、あるいは大社の伝承と縁を結びつけて語れるものを探し、由緒を添えて奉納できる一振りを選んでいた。
香も同様だった。
遠国から渡ってきた上質な香木を少量。
「数日とはいえ、これほど大きなお社に宿をお借りいたします。ほんの御礼です」
少弐はそう言って奉った。
高価なものを渡して恩を売る、という態度ではない。
むしろ、
あなた方のことを調べ、考えた上で持ってきました。
そのこと自体を贈るような献上だった。
大社側との話は、その後も続いた。
社殿のこと。
古い祭祀のこと。
国譲りのこと。
大国主大神にまつわる土地の話。
少弐は聞きながら帳面を埋めていった。
そして日が暮れる。
少弐と小早川隆景が宿所で話していたところへ、思いがけない客がやってきた。
「失礼する」
声とともに姿を現した男は、酒を持っていた。
吉川元春。
小早川隆景の兄である。
そして今の出雲は、毛利方の中でも元春が強く関わり、治める土地であった。
「兄上」
隆景が少し驚いた。
「来られるなら先に知らせてくだされば」
「知らせたら面倒であろう」
元春はそう言うと、持ってきた酒を置いた。
「少弐殿が出雲へ来ていると聞いた。隆景もいる。ならば一度くらい顔を出しておこうと思ってな」
「これは恐縮です」
少弐が頭を下げる。
元春は堅苦しい挨拶を早々に終わらせた。
「まあ飲まれよ」
酒が注がれる。
少弐は酒に強い方ではないので、ゆっくり口をつけた。
元春はよく飲んだ。
そして、よく話した。
「出雲は面白い土地でな」
そこから話が始まった。
山がある。
海がある。
古い社がある。
土地ごとに昔からのしきたりがある。
同じ出雲でも場所によって人の気風が違う。
元春は自分がこの土地を預かる者として、そんな話をした。
少弐は聞いた。
質問を急がない。
先ほど自分で決めたばかりである。
出雲の今を急ぎて問うべからず。
誰がどこで戦っている。
誰と誰が仲が悪い。
どこに毛利への不満がある。
そんなことは聞かない。
元春が話すなら聞く。
こちらから掘り起こす必要はない。
むしろ少弐は、元春本人を見ていた。
酒を注ぐ。
話す。
また注ぐ。
だが、何かがある。
少弐にはそう見えた。
元春がただ弟と客人に酒を振る舞うためだけに、わざわざ出雲大社まで来たとは思えない。
少弐はしばらく付き合った。
そして頃合いを見て言った。
「吉川殿」
「なんだ」
「何か、私にお話があるのでしょう?」
元春の手が止まった。
隆景が兄を見る。
少弐は笑っていた。
「違いましたか?」
しばらく沈黙があった。
やがて元春も笑った。
「……隆景」
「はい」
「この男、面倒だな」
「お気づきになられましたか」
「弟まで何を言う」
三人が笑った。
元春はもう一杯飲んでから、懐から紙を取り出した。
「実はな」
少弐の前へ置く。
そこには書名と、いくつかの巻や箇所が記されていた。
「今、『太平記』の注釈をまとめている」
少弐の顔つきが変わった。
「吉川殿が?」
「おかしいか」
「いえ」
むしろ興味を持った。
元春は続ける。
「手元にある本だけでは足りぬ」
写本によって欠けているところがある。
読み比べたい箇所がある。
さらに、自分が持っていない者の注釈も読んでみたい。
「同じところでも、人によって読み方が違う。それを見たいのだ」
少弐は紙を手に取った。
「この欠けている箇所を探せばよろしい?」
「叶うならばな」
「写しでも?」
「もちろん構わぬ」
「注釈書の方は?」
「私が持っていないものなら、できるだけ見たい」
少弐は一つずつ確認していった。
どの巻か。
どこからどこまで欠けているか。
元春がすでに持っている注釈は何か。
原本が必要なのか。
写本で構わないのか。
元春は答えながら、少しずつ注文を増やしていった。
やがて苦笑する。
「いや、全部揃えよという話ではないぞ」
「分かっています」
「見つかったものだけでよい」
「ええ」
「……見つからなくとも構わぬ」
「探してはみます」
少弐は紙を畳んだ。
「兵庫津へ戻れば、清盛館の蔵書も調べてみましょう。京にも当たれます」
「助かる」
元春は明らかに嬉しそうだった。
「叶ったなら――」
一度言葉を切る。
「また出雲へ来てくれ」
少弐は元春を見る。
「もちろん」
これこそ、少弐が欲しかった言葉でもあった。
出雲へ来る理由が、もう一つできた。
大社だけではない。
この土地を預かる吉川元春本人から、
また来てほしい
と言われたのである。
ところが話はそこで終わらなかった。
元春は酒を飲みながら、少し考えていた。
「少弐殿は、朝鮮へ行ったことがあるそうだな」
「あります」
「北にも随分行ったとか」
「ええ。蝦夷からさらに北へ」
元春は少し黙った。
「……向こうにも軍記物というものはあるのか?」
少弐が顔を上げた。
「朝鮮や北方の?」
「そうだ」
元春は少し照れたように酒を口へ運んだ。
「太平記ばかり読んでいるとな。他所の国では、戦をどう書くのかと思うことがある」
隆景が兄を見る。
元春は構わず続けた。
「名将がどう戦ったという話でもよい。国が争った話でもよい。城を攻めた話、異民族と戦った話……そういうものがあるなら、一度読んでみたい」
「日本語でなくとも?」
少弐が尋ねる。
「読めぬものなら習えばよい」
即答だった。
少弐は思わず笑った。
「それは随分と大きな注文になりましたな」
「だから、あればでよいと言っている」
元春も笑った。
しかし少弐には心当たりがあった。
書物そのものではない。
自分自身が持っている。
北方を旅したときの記録。
コタンの長や戦士たちから聞いた戦の話。
土地同士の争い。
海を渡ってきた者との戦い。
北方の者たちが語る英雄や戦士の話。
そして、それを記録した挿絵。
少弐はすぐにはそれを差し出さなかった。
清盛館に戻れば整理できる。
朝鮮関係についても、自分の蔵書だけでなく、伝手を使って探せる。
「分かりました」
少弐は答えた。
「まず『太平記』の欠けた箇所と注釈書を探しましょう」
元春が頷く。
「それから朝鮮と北方についても、私なりに探してみます」
「無理はせぬようにな」
「ただし」
少弐が笑った。
「少々変わったものが届いても、驚かないでください」
「今さら少弐殿から何が届いても驚かぬ」
隆景が横から口を挟んだ。
「兄上、それは言わぬ方がよろしいかと」
「なぜだ」
「この方は本当に変なものを持ってきます」
少弐が抗議する。
「人聞きが悪い」
再び笑いが起こった。
酒が注がれる。
出雲の夜はさらに更けていった。
少弐はふと思った。
出雲へ来る前、自分は考えていた。
無理に聞く必要はない。
懐へ入り、向こうから話してくれるまで待てばいい。
その初日に、出雲を預かる男が自ら酒を持って訪ねてきた。
しかも最後には、自分から頼み事まで置いていった。
少弐は杯を眺めながら、心の中で少し笑った。
急ぐ必要はない。
次に来る理由は、もうできている。




