帝の渡った海――仏谷寺の一夜
美保の港を一日歩き回り、商人の出身地や積荷、航路を書き留めた少弐冬明たちは、その日の宿を寺に求めた。
仏谷寺。
美保の港にほど近い寺である。
少弐は美保へ来る前から、ここに寺があることはある程度調べていた。
まして今回は小早川隆景まで同行している。突然大人数で押しかけて、ただ泊めてほしいでは具合が悪い。
寺へ入ると、少弐はまず住持に礼をした。
「今宵、宿をお貸しいただけるとのこと。ありがとうございます」
そう言って、小さな包みを差し出した。
中身は香木である。
旅の途中、寺社への礼として使えるよう、あらかじめいくらか持ってきていたものだった。
「大したものではございません。仏前にでもお使いいただければ」
住持は恐縮したが、少弐は、
「こちらは泊めていただく身ですから」
と笑って押し切った。
ところが、そのあと少弐はもう一つ頼み事をした。
「それと――勝手を申しますが、明日一日、こちらに留まらせていただけませんでしょうか」
「明日も、ですか」
「はい」
少弐は港で書き込んだ帳面を見せた。
美保へ来る商人。
その出身地。
積荷。
寄港地。
隠岐への道。
伯耆、石見、但馬、若狭へ続く海路。
「今日一日では、見たものを書いただけになってしまいました。明日はそれを確かめたいのです。港ももう一度歩きたい。それに――こちらのお寺にも、少々お話を伺いたい」
住持が興味を示した。
「寺の話を?」
「この海を渡った方々についてです」
その一言から、話は思いがけず長くなった。
夕餉を終えたあとも、少弐は住持や年嵩の僧たちと座を囲んでいた。
話題の中心となったのは、帝と隠岐の海だった。
後鳥羽院。
そして後醍醐帝。
都から遠く離れた隠岐へ配流された帝たちの話は、この海辺では単なる京の昔話ではない。
少弐がまず聞いたのも、政治の話ではなかった。
「隠岐へ渡るとなれば、どのように船を待ったのでしょう」
そこからである。
どこで風を待ったのか。
どんな船を使ったと伝わるのか。
付き従った者はどれほどだったのか。
この辺りに残る話では、帝はどのような様子だったとされているのか。
少弐は一つ聞くたびに、帳面へ書いた。
だが話が進むにつれ、少弐の関心は帝その人へ移っていった。
「帝は何を好まれた、と伝わっています?」
住持が笑った。
「そこをお尋ねになりますか」
「そういう話が好きなのです」
何を召し上がったのか。
どんな香を好んだのか。
歌を詠むときには何を愛でたのか。
どのような装束だったのか。
都を離れても持っていこうとしたものはあったのか。
少弐にとって、そうした話は政治上の出来事に劣らず重要だった。
帝が配流された――。
その一行だけでは、人間の姿が見えない。
だが、
何を食べた。
何を好んだ。
何を都から持ってきた。
海を見て何を語った。
そこまで集めれば、ようやく一人の人間が見えてくる。
話は次第に天皇家そのものへ広がった。
「では、後鳥羽院は刀剣をことのほか好まれたという話は、こちらでも?」
「伝わっておりますな」
「菊の話は?」
「それもございます」
少弐の目が輝いた。
小早川隆景は少し離れたところで茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
昼間は港で商人を捕まえて、
――どこから来た。
――何を積んできた。
――どこで買った。
と質問攻めにしていた男が、今度は僧を相手に、
――帝は何を好んだ。
――何を持っていた。
――何を食べた。
とやっている。
「少弐殿」
「はい?」
「今日は一日、美保の商人を調べておられましたな」
「ええ」
「今は帝を調べておられる」
「ええ」
「随分と幅が広い」
少弐は当然のように答えた。
「同じですよ」
「同じ?」
「人が何を持って、どこから来て、何を好んだのかを聞いているだけです」
一瞬、座が静かになった。
それから住持が笑い、隆景もつられて笑った。
香木の香りが、かすかに堂内へ流れていた。
少弐が夕刻に献じたものを、さっそく仏前で焚いてくれたのである。
その香りの中で、昔の帝が渡った海について話す。
少弐はふと筆を置いた。
「不思議なものですね」
「何がでしょう」
「今日、港で隠岐から来た商人と話しました」
少弐は外へ目を向けた。
夜の向こうには日本海がある。
「その者が渡ってきた海を、昔は帝も渡った」
昼に帳面へ書いた航路が、突然、別の意味を持ち始めた。
美保から隠岐へ延びる一本の線。
それは交易路である。
漁師の道でもある。
だが時には、都を追われた帝が渡る道にもなった。
「明日、もう一度海を見てみます」
少弐はそう言って、帳面を開き直した。
清盛館へ収める美保の記録に、新しい項目が一つ増えた。
美保・隠岐間航路――帝王配流に関する伝承。
品物と値段だけでは、港の姿は残らない。
海図だけでも足りない。
その海を誰が渡り、土地の者がそれをどう語り継いだのか。
それもまた、美保という土地を形作るものだった。
その夜の仏谷寺では、香木の香りが消えてからも、帝と隠岐をめぐる昔話がしばらく途切れることはなかった。




