二つの海を結ぶ門――関門を越えて美保へ
小早川隆景が厳島へ到着すると、少弐冬明の山陰視察はいよいよ始まった。
隆景は数日の旅程を示した。
厳島から西へ。
周防・長門沿岸を進み、関門海峡を抜けて日本海へ出る。
そこから山陰沿岸を東へ進み、美保へ入る。
少弐は隆景の予定を聞き終えると、ほとんど手を加えなかった。
「それで行きましょう」
「よろしいので?」
「私は案内される側ですから。それに関門を通れるなら、そのほうがいい」
少弐はむしろ関門という言葉に強く反応していた。
瀬戸内海と外海を結ぶ狭い水道。
西方艦隊を任された以上、一度は自分の目で見ておきたかった場所だった。
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出航してしばらくすると、少弐は妙なことに気づいた。
静かなのである。
船が少ないという意味ではない。
漁船もいる。
荷を積んだ船もいる。
水軍の船も見える。
だが少弐たちの船団が近づくより先に、小船が動き、航路が空けられていく。
「……ずいぶん通りやすいですね」
隆景は平然としていた。
「話は通してあります」
「毛利の水軍に?」
「それだけではありません」
隆景は今回の航海に先立って、関門周辺の在地水軍へ連絡を入れていた。
さらに――
「大友にも?」
少弐が聞き返した。
「ええ」
海峡の向こうには豊前・北九州方面の勢力関係がある。
毛利側だけで話をまとめて、
――今日は毛利の船を通す。
では余計な誤解を生む。
まして今回通るのは、小早川隆景だけではない。
西方艦隊を預かる少弐冬明まで乗っている。
そのため隆景は事前に大友側にも話を通していた。
毛利の軍事行動ではない。
客人を伴う領内案内の航海である。
関門を通って山陰へ向かう。
それだけを先に知らせておいた。
少弐は隆景を見た。
「ずいぶん念入りですね」
「何も起きないようにするのが案内役の仕事です」
「なるほど」
少弐は素直に感心した。
戦わずして海を静かにする。
それもまた海を治める方法なのだろう。
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やがて関門が近づいた。
ここからはさらに様子が変わった。
在地の水軍から出された船が前へ出る。
先導である。
「ここからは、あの船についてください」
隆景が指示した。
少弐は頷いた。
そして、すぐイネスを呼んだ。
「始めよう」
「もう準備しています」
紙が広げられる。
少弐は今回の旅で、ただ関門海峡を通過するつもりではなかった。
海図を作るつもりだった。
もちろん測量だけを目的とした専門航海ではない。
だが北方探訪で身につけた方法がある。
方角。
おおよその距離。
沿岸の形。
目印になる山。
岬。
島。
岩礁。
潮。
風。
水深について現地の船乗りから聞いた話。
それらを可能な限り記録する。
少弐は甲板から岸を見る。
「右手、あの山を描いて」
イネスが輪郭を取る。
「その下に集落」
「見えています」
少弐は船頭へ聞く。
「ここ、いつもこんなに流れが速い?」
先導役を通じて答えが返ってくる。
時刻によって変わる。
潮によっては逆向きになる。
風と潮がぶつかれば波が立つ。
大型船なら待ったほうがよい時間もある。
少弐は全部書いた。
「ここ重要だな」
隆景が横から覗く。
「何がです?」
「海岸の形より、潮のほうです」
少弐は紙の余白へ書き込む。
往路・時刻。
天候。
風向。
潮向。
「帰りもここを通りますよね?」
「その予定です」
少弐が笑った。
「ちょうどいい」
隆景には嫌な予感がした。
「何がです」
「二回測れる」
往路だけなら、その日の偶然かもしれない。
帰路で再び通れば、違いを比較できる。
さらに現地の水軍へ聞き取りをすれば、
一年を通した関門の海の癖
まで、ある程度見えてくる。
少弐は夢中だった。
「イネス、あの岬も」
「描いています」
「あの岩も目印になる」
「書きました」
「先導船との距離も――」
隆景が口を挟んだ。
「筑前守殿」
「はい?」
「父が城を見せなかった理由が、よく分かります」
少弐は不思議そうな顔をした。
「これは海ですよ」
「知っております」
「城じゃありません」
「それも知っております」
隆景はそれ以上言わなかった。
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船団は先導船の後ろを静かに進んだ。
大声を上げる必要もない。
水軍同士が睨み合うこともない。
事前に話が通され、露払いまで済んでいる。
少弐はそこで、もう一つ記録した。
誰がこの海を使っているのか。
毛利。
大友。
在地水軍。
商船。
漁船。
海図とは海岸線だけを書くものではない。
少弐にとっては、
その海で誰が生き、誰に話を通せば船が安全に進めるのか
まで含めて航路の情報だった。
北方でもそうだった。
海そのものに国境線が引かれているわけではない。
だが、土地ごとに長がいて、海ごとに顔役がいる。
それを知らずに船を出せば事故が起きる。
今回、隆景が何事も起こさず関門を通したこと自体が、一つの教材だった。
「隆景殿」
「なんでしょう」
「帰りも同じ人に頼めます?」
「水先案内ですか」
「はい。それと、できれば帰りに少し話を聞きたい」
「何を?」
「一年の潮と風。それから事故が多い場所」
隆景は苦笑した。
「手配しておきましょう」
「助かります」
こうして船団は関門を抜けた。
前方に広がる海が変わった。
瀬戸内から日本海へ。
少弐は新しい紙を出した。
ここから先は、ほとんど知らない海だった。
山陰沿岸を東へ。
目指すは美保。
少弐は海図の最初の線を引いた。
北方でそうしたように、
知らない海を、自分が実際に通った一本の線から知っている海へ変えていく。
その傍らでイネスは沿岸の姿を描き、小早川隆景はそれを眺めながら、父の警戒が決して大げさではなかったことを改めて思い知っていた。




