老いてなお虎――喜寿の祝いと三つの願い
天正元年秋。
西方艦隊の再編を終え、神戸の商いも四国から来た者たちへ任せられるようになると、少弐冬明はようやく本来の仕事へ戻った。
氏治から任されたのは、西方艦隊と中国方面。
ならば、中国地方最大の勢力である毛利を、自分の目で見なければならない。
折しも、毛利元就は七十七。
喜寿である。
少弐はそれを知ると、ただの挨拶では面白くないと考えた。
「せっかくだ。祝いにしよう」
まず用意させたのは、七種類の高価な薬だった。
朝鮮人参をはじめ、少弐の交易網だからこそ揃えられる薬種を選ばせる。
ただし、薬を箱に詰めただけではない。
それぞれを少量ずつ、すぐ服用できるよう細かく分けた。
それを収めるのが特注の印籠だった。
意匠は毛利ではない。
さらに遡る。
大江氏。
毛利家がその流れを称する大江氏を連想させる意匠を職人に考えさせ、元就個人が腰に下げて持ち歩けるよう仕立てた。
「酒はやめよう」
喜寿なら祝い酒を贈るのが手っ取り早い。
だが、元就の家には酒にまつわる苦い話がある。
ならば酒ではなく薬。
七十七歳まで生きた老人へ、さらに長く生きてもらうための七つの薬である。
そして二つ目。
巨大な荷が用意された。
虎の標本。
北方・大陸方面との交易から得た虎を標本に仕立てたものの一つだった。
少弐はそれを眺めて言った。
「老いてなお虎、だな」
七十七になってなお、中国地方に巨大な影響力を持つ毛利元就。
これ以上分かりやすい品もなかった。
だが、この二つはあくまで元就個人への祝いだった。
毛利家そのものへの贈答も別に用意した。
大江氏を意識した意匠を施した硯、筆、硯箱、文箱の一揃い。
武門でありながら、その祖を大江氏へ求める毛利家へ、刀ではなく文具を贈る。
少弐なりに考えた祝いだった。
そしてイネスも同行することになった。
佐野昌綱へ許可を取り、旅の記録と挿絵を任せる。
地形。
町。
港。
寺社。
風俗。
産物。
少弐が見たものを記し、イネスが絵に残す。
こうして少弐は西へ向かった。
---
毛利元就との対面。
挨拶を終えると、まず毛利家への品が運び込まれた。
硯。
筆。
それを収めた箱。
元就は意匠を見る。
「これは……」
少弐が頭を下げた。
「毛利家は大江氏の御流れと伺いましたので」
元就が少弐を見る。
ただ高価な唐物を持ってきたわけではないことは、それだけで伝わった。
「こちらは毛利家への御祝いにございます」
続いて、小さな印籠が差し出された。
「こちらは元就公へ」
「ほう」
「七十七と伺いました」
中には七つに分けられた薬。
少弐が説明する。
「祝い酒も考えましたが……元就公には、酒よりこちらのほうが祝いになろうかと」
一瞬の沈黙。
やがて元就が笑った。
「わしの家のことまで調べたか」
「長生きしていただく祝いに、身体を悪くするものを持ってきても仕方ありませんので」
そして最後。
大きな覆いが外された。
虎が現れた。
居並ぶ毛利家臣たちまでざわめく。
元就もさすがに目を見開いた。
「……虎か」
「北の大陸から参りました」
少弐は虎を見る。
「老いてなお虎」
それから元就を見る。
「元就公には、これが一番似合うと思いまして」
七十七歳の老将は、しばらく虎を眺めていた。
やがて笑った。
「筑前守。そなた、祝いだけにこれほどの物を持ってきたわけではあるまい」
少弐も笑った。
「分かりますか」
「分からぬほうがおかしい」
そこで少弐は本題に入った。
「三か所、見せていただきたいところがあります」
「申してみよ」
少弐は一つずつ挙げた。
「石見銀山」
元就の目が細くなる。
「美保」
そして、
「出雲大社」
少弐は頭を下げた。
「毛利殿の御領内を歩き、実際に見ておきたいのです」
元就は即答しなかった。
石見銀山。
美保の港。
出雲大社。
単なる物見遊山としては、場所が良すぎる。
しかも相手は西方艦隊を任された男である。
元就は少弐をしばらく見た。
「よかろう」
少弐が顔を上げる。
「ただし、条件がある」
「もちろん」
「案内をつける」
元就が名を挙げた。
小早川隆景。
少弐の表情が変わった。
「隆景殿を?」
「不満か」
「逆です。そこまでしていただけるとは思っていませんでした」
「そなたを一人で歩かせるほうが怖い」
少弐には意味が分からなかった。
元就はさらに条件を出した。
「宿は寺を使え」
「承知しました」
「道中の城には入るな」
少弐が少し首を傾げた。
「城だけ?」
「城だけだ」
町を見てもよい。
港もよい。
寺社もよい。
街道も見る。
民と話すのも止めない。
石見銀山も、見せられる範囲なら見せる。
美保も出雲大社も構わない。
ただし――
毛利方の城郭内部への立ち入りだけは禁止する。
少弐は素直に頷いた。
「分かりました」
ところが元就は少弐を見ながら言った。
「理由を聞かぬのか」
「軍事上の理由でしょう?」
「それだけではない」
元就は少し笑った。
「筑前守。そなた、自分で気づいておらぬのか」
「何をです?」
「記憶がよい」
少弐が瞬いた。
「そうですか?」
「人の話から要点を拾うのも早い」
さらに元就の視線がイネスへ向く。
記録帳を持ち、絵まで描く異国の女。
「ましてや絵師まで連れておる」
イネスが少弐を見る。
少弐もイネスを見る。
元就は呆れたように続けた。
「そなたに城を一度歩かせれば、何を見る?」
「別に……門とか、石垣とか」
「ほれ」
「井戸も見ますね」
「ほれ」
「蔵の位置も気になります」
「もうよい」
元就は手を上げた。
周囲から小さな笑いが漏れた。
「悪意がないから余計に困る」
少弐は納得がいかない。
「見ても攻めませんよ」
「そういう話ではない」
元就は虎の標本を横目に見た。
「今は互いに争うつもりがなくとも、先のことなど誰にも分からぬ」
そして静かに続けた。
「ならば最初から見せぬほうがよい」
これは少弐にも理解できた。
毛利が少弐の城を調べない。
少弐も毛利の城を調べない。
互いに余計な疑念の種を作らない。
「相互のため、か」
「そういうことだ」
少弐は深く頭を下げた。
「承知しました。城には入りません」
元就も頷いた。
「その代わり、領国は見ていけ」
そして小早川隆景を見る。
「隆景」
「はっ」
「筑前守を案内せよ」
少し考えてから付け加えた。
「よく見張っておけ」
少弐が顔を上げた。
「見張るんですか?」
「案内だ」
「今、見張れと」
「聞き違いであろう」
七十七歳の元就は涼しい顔をしていた。
こうして奇妙な毛利領視察が決まった。
城には入らない。
宿は寺。
案内役は小早川隆景。
そして少弐とイネスは、石見銀山、美保、出雲大社へ向かう。
祝いに持ってきた虎を残し――
今度は少弐自身が、中国地方という巨大な虎の懐へ入っていくことになった。




