六月、四か月目の和議
元亀四年――一五七三年六月。
最後の大きな戦闘から、約四か月。
ようやく佐野昌綱から知らせが届いた。
和議がまとまった。
少弐冬明はその報せを聞いて、しばらく黙ったあと、
「……やっとか」
とだけ言った。
念のため黒田孝高も伴い、佐野のもとへ向かった。
会ってみれば、佐野は戦場にいた頃より疲れた顔をしていた。
「長かったな」
少弐が言う。
「俺に言うな」
佐野は即座に返した。
「四か月、誰を相手にしていたと思っている」
少弐はそれ以上言わず、黒田とともに席についた。
佐野は地図と書状を広げた。
「まず、これが最終的な条件だ」
山城方面では、比叡山までを境界とする。
ただし比叡山そのものは、双方が兵を入れて軍事拠点化することを避ける中立地帯とした。
丹波方面については、大きく線を動かさない。
今回の戦闘後の勢力関係をおおむね維持することで決着した。
大和方面では、北の奈良口と東の名張口を境として確定する。
さらに佐野側には、今後の防衛のため、奈良口・名張口をはじめとする自領の境界近くに城や砦を新設することが正式に認められた。
「ここは譲らなかった」
佐野が奈良口と名張口を指した。
「土地をもう少し取るより、次に攻め込まれないための城が欲しかった」
黒田が頷く。
「次があれば、大和の内側ではなく入口で戦える」
「ああ」
そして最後が捕虜だった。
「双方、返す。これで決まった」
少弐は改めて地図を眺めた。
比叡山。
奈良口。
名張口。
丹波。
戦場で曖昧になっていた線が、ようやく政治の上でも確定した。
「……それで」
少弐は地図から顔を上げた。
「佐野殿」
「なんだ」
「どうやった?」
佐野は何も答えない。
「あれだけ首を縦に振らなかった義秋公が、急にこれを呑むとは思えない」
黒田も佐野を見る。
「私も、それは伺いたい」
佐野はしばらく二人を見ていたが、やがて一通の書状を取り出した。
「義礼殿を使った」
少弐の目が細くなる。
「……坂東へ逃がした?」
「ああ。足利義礼殿だ」
かつて足利義秋の対抗となり得る存在として、坂東へ逃がし、保護していた足利義礼。
佐野は、その存在を四か月目にして表へ出した。
「まず、義礼殿を古河公方とした」
少弐の表情が変わった。
黒田もすぐに意味を理解した。
だが佐野の策は、それだけではなかった。
「朝廷にも話を通した」
「何をした?」
「献金した」
「……いくら?」
「聞くな」
少弐は黙った。
相当使ったらしい。
「公家衆にも働きかけた。そして義礼殿に、朝廷から正式に官位をいただいた」
少弐はそこで完全に理解した。
それまでの義礼は、坂東に保護されている足利一門の一人だった。
それを佐野は、
古河公方・足利義礼
として立てた。
さらに朝廷から官位まで得させた。
つまり――
「佐野殿」
「なんだ」
「義秋公を脅したな?」
「脅していない」
即答だった。
「いや、脅してるだろ」
「俺は義秋公に事実を伝えただけだ」
佐野は平然としていた。
「坂東におられる足利義礼殿が、このたび古河公方となられた。そして朝廷より官位を賜った。目出度いことです、と」
「それを交渉が揉めてる最中に伝えたのか?」
「ああ」
「それを脅しというんだ」
「何も要求していない」
黒田が横で小さく笑った。
佐野は続ける。
「ただし、義秋公には分かったはずだ」
古河公方。
朝廷からの官位。
そして、その背後にいる坂東。
義礼はまだ将軍ではない。
坂東も義秋を廃すると宣言してはいない。
だが、このまま義秋が和議を拒み続ければどうなるか。
坂東は義礼をさらに育てることができる。
古河に御所を整える。
奉公衆を集める。
朝廷との関係を深める。
官位をさらに進める。
そして、いつの日か――。
そこから先は言う必要がなかった。
「義秋公だけではない」
佐野が言った。
「織田にも同じ話を流した」
黒田が静かに頷いた。
「それは信長殿にも嫌な札でしょうな」
現在の将軍と争うだけならいい。
だが東国に、別の足利の政治的権威が育っているとなれば話は変わる。
しかも古河公方としての立場を持ち、朝廷から官位を受け、背後には坂東がいる。
少弐は腕を組んだ。
「それで?」
「義礼殿の官位が伝わってから、急に話が進み始めた」
「やっぱり脅してるじゃないか」
「偶然だ」
「四か月止まってた話が?」
「偶然だ」
「古河公方にした直後に?」
「偶然だ」
少弐は黒田を見る。
黒田は少し考えてから、
「世には不思議な巡り合わせもございます」
とだけ答えた。
「官兵衛までそっちにつくのか」
ようやく佐野も少し笑った。
だが、その策の意味は三人とも理解していた。
義秋を追放したわけではない。
義礼を将軍にしたわけでもない。
むしろ義秋には、将軍として自ら和議を裁可することで面目を保つ道を残した。
その代わり、
「これ以上拒むなら、坂東には別の足利がいる」
という事実だけを突きつけたのである。
少弐はもう一度、講和条件の書状を見た。
「……四か月か」
「ああ」
「戦そのものより、ずっと長かったな」
佐野は疲れ切った顔で答えた。
「だから俺に言うな」
黒田がとうとう笑った。
少弐も笑った。
ようやく終わった。
比叡山。
奈良口。
名張口。
丹波。
そして捕虜の返還。
四か月にわたって宙に浮いていた戦の決着が、ようやく文書の上でもついた。
少弐は立ち上がった。
これで神戸へ帰れる。
戦時の臨時拠点としてではない。
西方艦隊と交易網を抱えた、新しい神戸を本格的に動かすために。
そして坂東にはもう一人――
古河公方・足利義礼。
将軍ではない。
だが、将軍が決して無視できない足利が、一人増えていた。




