五月、有馬の煙
元亀四年――一五七三年五月中旬。
つい先日まで、塩飽を船橋のように埋めていた水軍衆の姿は、急速に減り始めていた。
追い返されたのではない。
仕事を与えられ、それぞれの海へ散っていったのである。
ある者は対馬へ向かった。
エカシロに選ばれた船頭、水主、船大工たちは、これから増える朝鮮・室蘭・水府坊・明川との交易を受け止めるため、対馬商館の設立準備に入った。
ある者は南へ向かった。
島津から寄港を認められている坊津を足場に、小西屋の下請けとして琉球との交易を育てる者たちである。
少弐から与えられた最初の注文は簡単だった。
――まず砂糖と香木を持って帰れ。
ある者は瀬戸内に残った。
商船の護衛。
荷の運搬。
洲本を中心とした紀伊・淡路間の哨戒。
そして神戸では水先案内、荷揚げ、近隣への卸。
ほんの少し前まで船を停める場所すらなく塩飽へ溢れていた水軍衆が、今ではそれぞれの持ち場で働き始めている。
西方艦隊は、まだ完成していない。
それでも――
すでに動き始めていた。
---
清盛館では、黒田孝高が松浦を捕まえて図面を広げていた。
「清盛館だけでは、もう足りませぬ」
館の隣へ、新たに三つの施設を設ける。
北方・朝鮮・瀬戸内・琉球などから集まる地図、航海記録、交易記録を整理する資料室。
大きな地図を広げ、船団、港、街道、砦、兵站をまとめて確認する作戦室。
そして帳簿や測量器具、航海器具、予備の地図などを収める保管倉庫。
「また増築か」
松浦が呆れれば、黒田は平然としていた。
「少弐様が帰ってくるたび、資料が増えますゆえ」
「その資料室も、すぐいっぱいになるんじゃないか?」
「その時はまた建てます」
---
港では赤井直正が正規兵を使って整備を進めていた。
船着場を広げる。
石を積む。
杭を打つ。
荷揚げ場を整える。
資材置場を作る。
西方艦隊の軍港が本格的に整備されるまでにも、船は次々とやってくる。
待ってなどくれない。
だから今ある港を、使いながら広げていく。
神戸市中では赤木甚兵衛と阿波辺岩蔵が警備に当たっていた。
船乗り、商人、職人、人足。
人が増えれば喧嘩も増える。
盗みも起きる。
荷を誤魔化す者も出る。
元山賊を含む彼らは、そうした連中の臭いを嗅ぎ分けることに妙に長けていた。
「戦よりこっちのほうが向いてるんじゃねえか?」
岩蔵が言えば、甚兵衛は嫌そうな顔をした。
「褒めてねえだろ、それ」
---
そして須知にも、ようやく休養が言い渡された。
帰還後も働き続けていた須知を見て、黒田が半ば強制的に仕事から外したのである。
「しばらく休まれよ」
「いや、俺はまだ――」
「休まれよ」
「しかし久太郎が」
「四十郎がおります」
須知は黙った。
それまで須知が見ていた堀久太郎については、四十郎が引き続き相手をすることになった。
もっとも、こちらも「監視」と呼べる状態ではなくなっていた。
「久太郎! 山へ行くぞ!」
「またか!」
「今日は昨日より先まで行く!」
「待て四十郎!」
二人は朝から駆けていく。
須知はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「……本当に大丈夫なのか」
黒田は涼しい顔だった。
「少なくとも、逃げる暇はなさそうですな」
「そういう問題なのか?」
もはや堀久太郎を見張っているというより、四十郎が連れ回している。
ある意味では、最も確実な監視だった。
須知はそれでも何度か振り返ったが、最後には諦めた。
久しぶりに刀を置き、本当に休むことになった。
---
六甲山では、虎衆と鷹衆が動いていた。
彼らの仕事は戦ではない。
六甲山そのものを地図へ変えることだった。
尾根。
谷。
沢。
水場。
獣道。
人が通れる道。
馬が通れる道。
荷車を通せる場所。
見晴らしのよい高所。
北方の山野を歩いてきた虎衆と、丹波山中で生きてきた鷹衆が一帯を歩き回り、情報を地図へ落としていく。
同時に要所へ小規模な砦を築いた。
巨大な城ではない。
街道を監視し、いざという時には数十人から百人ほどが籠もれるものだった。
さらに須磨、有馬、神戸を結ぶ街道も整備されていく。
海だけを押さえても神戸は守れない。
人も荷も兵も、山を越えて動く。
---
市中では病院の整備が進む。
新しい蔵も建つ。
造船所も用意される。
船大工の作業場。
船材置場。
水軍衆と家族の住居。
西方艦隊の予算が中央から入ることで、それまで順番を付けて少しずつ進めていたものが、一斉に動き始めていた。
槌の音。
鋸の音。
荷車の音。
船頭の声。
人足の声。
神戸全体が巨大な工事場になったようだった。
その中心にいるはずの少弐冬明は――
神戸にいなかった。
---
「……疲れた」
そう言って、有馬へ逃げた。
もちろん黒田には、
「少し休む」
と伝えてある。
返事は即答だった。
「どうぞ」
あまりに早かったので、少弐のほうが少し傷ついたほどである。
ライラだけを伴い、有馬へ上がった。
湯に入る。
食べる。
眠る。
久しぶりに、何もしない。
午後。
少弐は宿の縁側に座り、キセルへ火を入れた。
五月の山は若い緑に覆われている。
水の音がする。
鳥の声がする。
煙をゆっくり吸い込み、吐く。
隣にはライラが座っていた。
「静かだな」
「神戸がうるさすぎるのよ」
「そうかもしれない」
少弐は笑った。
目を閉じる。
すると静かな有馬にいるはずなのに、神戸の姿が次々と浮かんできた。
塩飽に溢れていた船は散った。
対馬へ。
坊津へ。
瀬戸内へ。
洲本へ。
船が動く。
荷が動く。
商人が動く。
黒田と松浦は清盛館を広げる。
赤井直正は港を造る。
赤木甚兵衛と岩蔵は市中を守る。
虎衆と鷹衆は六甲を歩き、地図を作り、砦を築く。
四十郎は久太郎を連れ回している。
須知もようやく休んでいる。
病院ができる。
蔵が増える。
造船所が形になる。
須磨、有馬、神戸を結ぶ道も少しずつ太くなっている。
少弐が一つ一つ指図しなくても、それぞれが自分の仕事を始めていた。
「……回り始めたな」
煙とともに言葉が漏れた。
「何が?」
ライラが尋ねる。
「神戸」
以前は違った。
船が必要なら探した。
人が必要なら集めた。
金がなければ工面した。
何かを始めるたびに、自分が誰かを捕まえて頼まなければならなかった。
今は、人が人を呼んでいる。
船が来るから蔵ができる。
蔵ができるから商人が来る。
商人が来るから、また船が来る。
水軍衆を集めれば航路が増え、航路が増えればさらに仕事が生まれる。
少弐が手を離しても、物事が動くようになり始めていた。
「俺がいなくても回るようになってきた」
「いいことじゃない」
ライラが言う。
「うん」
少弐は煙を吐いた。
「たぶんな」
五月の風が煙をさらっていった。
だが、一つだけ止まったままのものがある。
佐野昌綱からの知らせだった。
停戦後の条件は、ほぼまとまっている。
黒田からそう聞いている。
残るのは義秋が首を縦に振るかどうか。
少弐が四国を回り、室蘭へ行き、坂東を経由して神戸へ戻ってきても――
まだ知らせはない。
「佐野殿……まだ苦労してるんだろうな」
少弐は呟いた。
ライラは何も言わなかった。
急かしたところで仕方がない。
今は佐野に任せるしかない。
少弐はもう一度キセルを吸った。
神戸では何百、何千という人間が動いている。
北へ向かう船。
南へ向かう船。
瀬戸内を走る船。
山を歩く虎衆と鷹衆。
港で石を積む正規兵。
図面と帳面に囲まれている黒田と松浦。
そして有馬では、少弐と同じように須知も束の間の休息を与えられている。
戦は止まった。
交易は動き出した。
町も育ち始めた。
だが畿内の行方だけは、まだ決まらない。
少弐は細く長く煙を吐いた。
「……まあ、今日くらいは考えるのをやめるか」
五月の有馬の風が、その煙を静かに山の向こうへ運んでいった。




