塩飽に浮かぶ船橋
港の騒ぎについて一通り説明を受けると、黒田孝高はすぐに次の話へ移ろうとはしなかった。
「少弐様」
「ん?」
「お戻りになったばかりです。ひとまず今日は荷を解き、湯にでも入られてください。落ち着かれましたら、改めてお話ししたきことがございます」
「……嫌な言い方をするな」
「良い話もございます」
「悪い話も?」
「ございます」
「だろうな」
少弐は苦笑した。
官兵衛がわざわざ「改めて」と言うのなら、立ち話で済む程度ではない。
その日の夕刻。
北方から持ち帰った荷を整理し、室蘭からの記録を清盛館の書庫へ移したあと、少弐は官兵衛を自室へ呼んだ。
机には茶と菓子、それから官兵衛が抱えてきた何冊もの帳面が置かれた。
「まず、停戦後の件から申し上げます」
官兵衛が切り出した。
少弐の表情が引き締まる。
「まとまったか」
「ほぼ」
「ほぼ?」
「諸方との交渉そのものは、まとまりました。領分、通行、捕虜、国人衆の扱い、今後の軍勢の配置についても、大筋では異論ございませぬ」
「なら終わったじゃないか」
「最後に一人おります」
少弐は察した。
「……義秋公か」
「はい」
官兵衛は淡々と言った。
「あとは義秋公が首を縦に振られるだけにございます」
「それが一番難しいじゃないか」
少弐は茶を飲んだ。
官兵衛は否定しなかった。
戦場で数千の兵を動かすより、足利義秋一人を納得させるほうが難しい――そんな顔である。
「まあ、それは佐野殿とも話そう。俺も戻った。必要なら顔を出す」
「お願いいたします」
「で?」
少弐は官兵衛の持ってきた帳面へ目を落とした。
「本題はそっちだろ」
官兵衛が頷く。
そこで少弐も、室蘭から坂東を経由した際に聞かされた話を伝えた。
「俺のほうからも一つある。大掾殿から話があった」
「何でしょう」
「坂東艦隊を割る」
官兵衛の目が動いた。
「現在は大きく北方と西国に分けているだろう」
「はい」
「それを四つにするそうだ」
少弐は指を四本立てた。
北方航路。
坂東沿岸。
南方・太平洋方面。
そして――
「新しい西方艦隊の根拠地候補として、ここに白羽の矢が立った」
官兵衛は窓の向こうを見た。
「兵庫津に」
「そうだ」
少弐は頷いた。
「まだ細部は決まっていない。だが中央から金が入る。港を拡張しろ、軍艦を造れ、修理設備も造れとな」
官兵衛はしばらく黙っていた。
それから、珍しく深いため息をついた。
「……少々、遅うございましたな」
「何が?」
「その話でございます」
少弐が怪訝な顔をする。
官兵衛は目の前の分厚い帳面を押し出した。
「こちらをご覧ください」
少弐が開く。
人名。
出身。
船数。
船の種類。
人数。
得意とする海域。
そして備考。
延々と続いている。
「何だ、これは」
「水軍衆の名簿にございます」
「どこの?」
「四国と瀬戸内の」
少弐の手が止まった。
官兵衛は平然と続ける。
「少弐様が以前、瀬戸内や四国の海の者たちに、兵庫津へ来るよう勧誘なされたでしょう」
「……したな」
「来ました」
「何人」
「人というより、船で数えたほうがよろしいかと」
嫌な予感がした。
官兵衛が別の帳面を開いた。
「伊予から河野方に縁のある海衆。来島方面の者。能島との交易に携わってきた船乗り。讃岐沿岸の水主。塩飽の船方。阿波沿岸の海衆。淡路の者。それから備讃瀬戸を往来していた小規模な船団が複数」
少弐は頁をめくる。
名のある家だけではない。
むしろ圧倒的に多いのは、十数人、数十人単位で船を持つ小さな海衆だった。
漁師。
船大工。
水主。
操船に長けた者。
水先案内人。
商船護衛を生業にする者。
島と島の間だけを知り尽くした者。
潮を読む者。
浅瀬を知る者。
そして戦になれば、そのまま武装して海へ出る者。
「……こんなに声を掛けた覚えはないぞ」
「少弐様が直接声を掛けた者が、知己を誘いました」
「ああ……」
「その知己が、また知己を誘いました」
「ああ……」
「さらに『兵庫へ行けば仕事がある』『坂東が船を買う』『船大工を厚遇する』『家族ごと移ってよい』という話になりまして」
少弐は額を押さえた。
「話が育ってるじゃないか」
「非常によく育ちました」
「官兵衛」
「はい」
「今、そいつらはどこにいる」
官兵衛は真顔で答えた。
「塩飽です」
「……塩飽?」
「兵庫津へ一度に入れれば、先ほどご覧になった港が完全に塞がります」
官兵衛は瀬戸内の簡単な地図を広げた。
「ゆえに現在、順次こちらへ移しておりますが、大半は一時的に塩飽周辺へ集結させております」
「どんな状態だ」
官兵衛が少し考えた。
そして、最も適切な言葉を選んだ。
「船橋でございます」
「船橋?」
「島から島へ渡れそうなほど船がおります」
少弐は官兵衛を見た。
冗談を言っている顔ではない。
「本当に?」
「少々誇張いたしました」
「そうだろうな」
「しかし遠目には、そう見えます」
「……どれだけ来たんだ」
「ですから名簿を」
官兵衛が帳面を少弐の前へ積み直した。
「こちらが現在確認済みの者」
どん。
「こちらが家族を伴う者」
どん。
「こちらが船大工、鍛冶、帆作り、綱打ちなどの職人」
どん。
「こちらがまだ移住するか決めておらず、とりあえず船だけ寄せている者」
どん。
「こちらが、少弐様に直接仕官を願い出ている海衆」
どん。
机の上が帳面で埋まった。
少弐はしばらく無言だった。
やがて一冊目を開き直す。
そこには官兵衛らしく、単なる人名だけではなく、それぞれが何を得意とするかまで記されていた。
――夜間航行に長ず。
――備讃瀬戸の潮流に詳し。
――弓船三艘。
――大型船操船経験あり。
――造船可能。
――船上鉄砲に慣れる。
――海賊働きあり、素行要注意。
――商船護衛を希望。
――家族四戸同行。
――兵庫への永住を希望。
少弐の目つきが変わっていく。
「……官兵衛」
「はい」
「これ、問題じゃないぞ」
官兵衛も頷いた。
「左様にございます」
「宝の山じゃないか」
北方の海で少弐は痛感していた。
船だけあっても艦隊にはならない。
海を知る人間が必要なのだ。
潮を読む者。
風を読む者。
船を直せる者。
帆を縫える者。
船材を選べる者。
知らない海へ行くことを恐れない者。
坂東には金もある。
造船所もある。
兵学館もある。
大砲もある。
だが何世代にもわたって瀬戸内の複雑な潮と島々の間で生きてきた人間だけは、金を積んでもすぐには作れない。
その人間たちが――
向こうから来ている。
「なるほど」
少弐は笑い始めた。
「中央から金が来る。港を造れと言われる。軍艦も造れと言われる」
「はい」
「ところが港を造る前に、水軍が来てしまった」
「左様にございます」
「順番が逆だ」
「まったく」
二人は顔を見合わせた。
そして少弐は、もう一度窓の外を見た。
兵庫津には商船がひしめいている。
そのはるか西、塩飽には今、この港へ入る日を待つ海の者たちが船を並べている。
「住むところは?」
「今のところ何とかなります。須磨方面を含めれば、家を建てる土地はございます」
「なら一番の問題は――」
「船です」
官兵衛が即答した。
「係留する場所がございませぬ」
少弐は笑った。
「ちょうどいいじゃないか」
「と申されますと」
「中央が港を造る金を出すんだろう?」
少弐は地図を自分のほうへ引き寄せた。
兵庫津。
須磨。
和田岬。
さらに瀬戸内へ続く海。
「なら、ただ船着場を増やすのはやめよう」
官兵衛が少弐を見る。
「最初から西方艦隊の根拠地として造る」
商船の港と軍船の港を分ける。
造船所を置く。
修理場を置く。
船材の倉を置く。
帆、綱、鉄、火薬の工房をまとめる。
そして塩飽に集まっている者たちを、船ごと順番に受け入れる。
「船大工は先に入れろ。港を造る人間そのものが向こうにいる」
「承知しました」
「水軍衆も、いきなり坂東式に染めるな。瀬戸内のやり方を聞く。兵学館から教官を送るのは、そのあとだ」
官兵衛の表情に、はっきりと満足の色が浮かんだ。
「それを聞いて安心いたしました」
「何が?」
「少弐様なら、集めた水軍をすぐ一つの軍制へ押し込めることはなさらぬと思っておりました」
「海は土地ごとに違うからな」
少弐は北方で見た海を思い出していた。
室蘭の海。
宗谷の海。
樺太の海。
アムールの河口。
千島の海。
そして瀬戸内。
同じ船乗りでも必要な技は違う。
少弐は名簿の最初の頁へ戻った。
「官兵衛」
「はい」
「明日から、この名簿を一人ずつ見よう」
「かなりおりますぞ」
「だから見るんだ」
少弐は笑った。
「船より人のほうが高い」
官兵衛も静かに頷いた。
窓の外では夕暮れの兵庫津に、無数の帆柱が黒い影となって並んでいる。
そして西の塩飽には、その港へ入りきれないほどの船が待っている。
坂東中央がこれから金を送り、新たな西方艦隊を造ろうとしている、その矢先。
軍港より先に。
軍艦より先に。
海を知る者たちのほうが、神戸へ集まり始めていた。




