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もう一日の室蘭――南北の記録

神戸へ帰る準備は、ほとんど終わっていた。


チョルガルから届いた虎皮や牙、爪も積む。鷹と鷹匠も連れて帰る。あとは風を見て室蘭を発てばよかった。


だが少弐は、もう一日だけ残ることにした。


「今すぐ帰ったところで、一日くらいなら大して変わらないだろ」


須知左馬之助は何か言いたそうだったが、今回は止めなかった。


少弐にも、ちゃんと目的があった。


大掾幹康がいる。


そして何より、ニカン先生がまだいる。


聞けるもの、写せるものは、今のうちに全部拾っておきたかった。



---


朝、少弐がニカン先生のところへ行くと、先生はすでに紙を広げていた。


「何してるの?」


「整理です」


「何の?」


「今回の旅の」


見れば、かなりの量だった。


まず、対馬で写させてもらった朝鮮関係の記録。


宗氏のもとに残されていた、朝鮮側との往来や交易に関する文書。


朝鮮から渡ってきた使節や交渉担当者が残していった記録。


贈答。


船の往来。


交易上の取り決め。


対馬側に求められた対応。


使節の応接。


少弐たちは原本を持ち出さず、許可を得て必要な部分を写していた。


その写本を――


「先生、訳したの?」


「航海中は暇でしたから」


日本語による翻訳が添えられている。


しかも単純な訳ではない。


官職名には説明。


儀礼的な言い回しには注釈。


当時と現在で意味が違いそうな語には補足。


地名についても、分かる範囲で場所が書き加えられていた。


「……先生」


「何でしょう」


「休暇だったんじゃないの?」


「休暇中に本を読む者もいるでしょう」


「翻訳まで?」


「性分です」


少弐は笑った。


なんだかんだ言いながら、この人は優しい。


そして何より、仕事熱心だった。



---


さらに別の束がある。


少弐が開く。


「これは?」


「水府坊と明川です」


今回得た地理情報の図説だった。


水府坊から明川までの海岸。


港。


周辺の山。


河川。


内陸へ向かう道。


虎皮などが運ばれてくる方向。


明川で現地の者から聞いた地名。


ニカン先生自身が知る故郷周辺の地理。


さらに北にあるという大きな湖。


そこから東へ流れる水。


確実に分かることと、伝聞にすぎないことまで分けてある。


少弐が作る見取り図とは出来が違った。


「俺の地図より分かりやすい」


「比較対象が低すぎます」


「ひどいな」


「少弐殿の図は、ご本人には分かるのでしょう」


「分かるよ」


「それを地図とは呼びません」


須知が小さく頷いた。


少弐は見なかったことにした。


だが、心の中ではもう決めていた。


――この先生、兵学館に頼んで顧問翻訳者にしよう。


常に少弐へ同行してもらう必要はない。


兵学館に所属したままでいい。


朝鮮語文書が入ったとき。


外交文書を比較するとき。


海外の書物を翻訳するとき。


必要に応じて仕事を依頼する。


少弐がこれから本格的に海外の書物を集めるなら、こういう人物がどうしても必要になる。


本人にはまだ言わなかった。


今言えば、


「休暇中に次の仕事を増やさないでください」


と言われそうだった。



---


午後になると、少弐は今度は大掾幹康を訪ねた。


「昨日の続き」


「艦隊か?」


「今日は北の方」


少弐は水府坊と明川について尋ねた。


大掾がどうやって航路を開いたのか。


最初に誰と接触したのか。


開港するとき、朝鮮側とどんな話をしたのか。


そして、その後どこまで調査したのか。


大掾は記録を持ってこさせた。


「水府坊は、こちらから朝鮮へ使者を送った」


正式に話を通した上で交易の口を開いた。


だから大掾側だけでなく、朝鮮側にも開港時の記録が残っているはずだという。


少弐はすぐ須知を見る。


「左馬之助」


「分かっております」


いつか探す本が、また増えた。



---


明川については、さらに面白かった。


開港して終わりではない。


その後、大掾たちは春から夏にかけて人を出し、周辺の調査を続けていた。


地形。


集落。


交易品。


言語。


文化。


人々がどの方向から来るのか。


「北へ行けば行くほど、名前が合わなくなった」


大掾は笑った。


朝鮮側の呼称。


現地の呼称。


商人が使う呼称。


そして少弐たちが北方で覚えた呼称。


同じ場所らしいのに名前が違うことが珍しくない。


「だから言葉から調べた」


大掾は別の帳面を開いた。


少弐が覗き込む。


「……ここまでやったの?」


完全ではない。


大掾自身もそう断った。


それでも、


哲秀――チョルガル。


綾部――アヤン。


大穂田――オホタ。


それぞれについて、簡単な語彙表が作られていた。


人。


家。


海。


川。


山。


船。


魚。


獣。


方角。


数。


交易に必要な言葉。


さらに、婚姻や家族のまとまり、食事、衣服、狩猟、交易の仕方など、分かった範囲の文化についても記録してある。


「文化まで?」


「言葉だけ覚えても商売はできん」


大掾は当然のように言った。


相手が何を贈り物と考えるのか。


何を失礼と考えるのか。


誰に最初に話を通すのか。


誰が品物を所有しているのか。


それを知らなければ、単語だけ覚えても役に立たない。


少弐は感心した。


「俺よりちゃんと調査してる」


「お前は現地で友達を作って帰ってくるからな」


「それも調査だよ」


「否定はせん」



---


さらに大掾は地形図を出した。


これも完全な測量図ではない。


だが以前より格段に詳しい。


チョルガル周辺。


アヤン周辺。


オホタ周辺。


海岸線。


河口。


山地。


船を入れられそうな場所。


冬季に危険となる場所。


集落間の大まかな距離。


少弐は、明川でニカン先生がまとめてくれた図説を横に置いた。


南から得た地理。


北から得た地理。


二つを並べる。


「やっぱり繋がるな」


「俺もそう思う」


大掾が答えた。


まだ空白は多い。


それでも、かつて別々だった世界が少しずつ一枚の地図になっていた。



---


「これ、写していい?」


少弐が聞く。


「もう用意してある」


大掾が別の束を渡した。


少弐が目を丸くする。


「くれるの?」


「写本だ。中央にも同じものを持って帰る」


そこには北方艦隊が集めた言語記録、文化記録、周辺地形図の写しがまとめられていた。


少弐は大切そうに受け取った。


「ありがとう」


「神戸で腐らせるなよ」


「須知に読ませる」


「自分でも読め」


「はい」



---


そして大掾は、これからの調査についても話した。


「まだ春夏が中心だ」


北方の航海は季節に強く左右される。


だから海が比較的穏やかな時期に探索し、地図を作り、交易路を伸ばす。


だが今後は、それだけでは足りない。


「樺太でも越冬させる」


少弐が顔を上げた。


「和人を?」


「そうだ」


現地の者なら冬を知っている。


しかし北方艦隊を恒常的に運用するなら、和人の船員や兵、商館員も冬を越せなければならない。


寒さ。


食料。


衣服。


燃料。


病気。


住居。


船の保全。


雪の中での移動。


何が足りなくなるのか。


どこまで本土から補給せず耐えられるのか。


「まず訓練だ」


いきなり最北端へ送り込むのではない。


比較的支援を受けやすい場所から始め、冬を経験させる。


問題点を記録する。


翌年改善する。


「春夏に道を伸ばして、冬にそこへ残れる人間を作る」


大掾はそう説明した。


少弐は頷いた。


北方交易を本当に定着させるなら必要なことだった。



---


夕方。


少弐の手元には、また荷物が増えていた。


対馬に残されていた朝鮮側文書の写しと、ニカン先生による翻訳。


水府坊・明川の地理図説。


大掾が渡してくれたチョルガル、アヤン、オホタの言語・文化分析。


周辺地形図。


北方交易航路の最新記録。


少弐はそれらを一つにまとめながら思った。


虎皮や牙より、こっちの方がよほど価値があるかもしれない。


そして少し離れたところでは、ニカン先生がまだ何かを書いていた。


少弐はその背中を見る。


――帰ったら兵学館に話を通そう。


教師を辞めてもらう必要はない。


むしろ兵学館にいてもらった方がいい。


そこから必要な時に助けてもらう。


少弐家の顧問翻訳者。


朝鮮だけではない。


これから須知が世界中から本を買い集めるようになれば、翻訳する者、比較する者、注釈する者が必ず必要になる。


その最初の一人として、これほど適任な人物はいない。


少弐は本人には黙ったまま、勝手にそう決めた。


翌朝。


ニカン先生は大掾の船に乗って坂東へ。


少弐、須知、ハウキは神戸へ。


今度こそ本当に帰る。


「もう寄り道しない?」


須知が確認した。


「しない」


「本当に?」


「だって、もう調べたいもの全部持ってるから」


須知は少し安心した。


だがハウキは知っていた。


少弐の場合、新しく調べたいものは航海中にも見つかる。


それでも翌朝、二隻の船は室蘭を離れる。


一月半近く続いた「ちょっとだけ北へ」の旅も、ようやく終わりへ向かっていた。

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