南から辿る北の道――水府坊から明川へ
「ちょっとだけ北へ」
そう言って対馬を出た少弐だったが、実のところ、本人の中では最初から行き先は決まっていた。
室蘭まで行く。
もちろん須知左馬之助にも、ニカン先生にも言っていない。
言えば止められると思ったからである。
ハウキだけは、薄々気づいていた。
対馬を離れた船は朝鮮半島の東岸へ取り付き、そのまま海岸線を左手に見ながら北上した。
順番は南から、
水府坊。
そして、さらに北に明川。
大掾が新しく交易の足場を作った二つの土地を、南から順番に見ていくことにした。
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最初に着いた水府坊で、少弐は大掾の仕事ぶりを見ることになった。
まだ大きな交易都市というほどではない。
だが、人と荷が動き始めている。
少弐が興味を持ったのは、北から流れてくる品々だった。
「虎?」
少弐は聞き返した。
現地の者が頷く。
北方から大きな虎の皮が来るという。
さらに話を聞けば、海獣の皮や牙らしい品もある。
「セイウチかな」
須知が帳面を開いた。
「この辺りで獲れるのですか?」
「いや」
少弐は首を振った。
「もっと北だと思う」
どこから来るのか尋ねてみる。
当然ながら、こちらで呼ばれている地名は少弐たちが北方で覚えたものとは違った。
しかし、
虎。
寒い土地。
海獣。
北から南へ動く商人。
そうした断片を重ねていくと、少弐には思い当たる土地があった。
「チョルガルの方じゃないかな」
ハウキも頷く。
「似てる」
かつて少弐たちが北方から辿った哲秀河――チョルガル。
虎皮をはじめとする北方産品が集まる土地だった。
ただ、水府坊で得られる情報はまだ遠かった。
何人もの商人を経て伝わってきた話である。
「北から来た」
「もっと北に虎がいる」
「海獣の牙も来る」
その程度だった。
少弐はむしろ面白がった。
北から南へ流れてきた品物を、自分たちは今度は南から追いかけている。
「じゃあ次」
少弐が海図を指した。
「明川」
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水府坊を出ると、船はさらに朝鮮東岸を北上した。
景色も少しずつ変わっていった。
対馬に近い朝鮮南部とは明らかに違う。
山が海へ迫る場所も増え、空気も冷たくなる。
やがて一行は明川へ入った。
ここでは北方のコタンでしてきたように「長」を探す必要はなかった。
朝鮮王朝の行政が届いている。
役所があり、官吏がおり、地方を治める役人がいる。
少弐は正式に訪問を申し入れた。
その辺りはニカン先生がいるので話が早い。
そして面会が決まると、少弐は酒を持っていった。
「まず、これを」
役人が酒を見る。
「日本の酒か」
「はい。口に合えばいいんですが」
北でも南でも少弐のやることはあまり変わらなかった。
まず酒か食べ物を渡す。
一緒に飲めるなら飲む。
それから話を聞く。
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少し打ち解けると、少弐は本題に入った。
「この辺りには虎がいます?」
「いる」
水府坊より答えが早かった。
少弐とハウキが顔を見合わせた。
「皮も?」
「北から来る」
「どの辺から?」
ここから話が面白くなった。
明川では、水府坊よりも北方の情報が具体的だった。
現在でいえば朝鮮半島北東部から、さらに沿海州へ続いていくような地域。
当然、当時の地名は違う。
少弐たちが北方で覚えた地名とも違う。
だが虎がいる。
虎皮が動く。
さらに北東にも人が住み、交易が続いている。
少弐は質問を重ねた。
須知が横で書く。
ハウキは地形の話になると口を挟む。
そしてニカン先生が、双方の地名を確認していた。
そのうち少弐は妙なことに気づいた。
「先生」
「何でしょう」
「さっきから、この辺の地理だけ妙に詳しくない?」
ニカン先生が少し黙った。
それから明川の内陸側を指した。
「私の故郷は、このさらに奥です」
少弐の目が輝いた。
須知は反対に嫌な予感がした。
「先生」
「はい」
「地図、描けます?」
「そうおっしゃると思いました」
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紙が出された。
まず明川の者たちに、周辺を描いてもらった。
明川。
海岸。
内陸へ向かう道。
山。
川。
集落。
北へ続く道。
虎皮などが運ばれてくる方向。
正確な測量図ではない。
それでいい。
次にニカン先生が、自分の知っている内陸側を補った。
「ここに山があります」
「うん」
「こちらへ行く道がある」
須知が書き込む。
ハウキが横から覗き込んでいた。
「こっちは?」
「さらに北だ」
「川は?」
「ある」
少弐は今度、自分たちが北方遠征で作った見取り図を取り出した。
二枚を並べる。
北から描いた土地。
南から描いた土地。
名前は違う。
海岸線も怪しい。
距離も正確ではない。
それでも特徴的な川、山、人の移動する方向を一つずつ合わせていく。
さらに決定的だったのが交易品だった。
虎皮。
北方側では、少弐たちはその産地と交易路をある程度知っている。
南側では、その同じ品物が北から流れてくる。
少弐が二枚の地図を指で繋いだ。
「ハウキ」
「うん」
「やっぱりこれ――」
ハウキも頷いた。
哲秀河――チョルガル。
少弐たちが以前、北から到達した場所だった。
「繋がった」
少弐が嬉しそうに言った。
南から北へ辿った道と、
北から南へ調べていた道が、
初めて同じ地図の上で重なった。
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ところがニカン先生が、さらに内陸を指した。
「この北には、大きな湖があります」
「湖?」
「はい」
少弐がすぐ食いついた。
ニカン先生は紙に大まかな位置を描く。
「かなり大きいと聞いています」
「水はどっちへ流れる?」
「東です」
少弐は湖から東へ線を引いた。
「このまま海まで?」
「そこまでは知りません」
ニカン先生は首を振った。
「私が知っているのは、湖から水が東へ流れているということまでです。その先がどこまで続くのかは分かりません」
少弐はその線をじっと見た。
東。
その先には海がある。
そして北方で自分たちが調べた土地がある。
ハウキが少弐を見る。
「行きたい?」
「行きたい」
即答だった。
須知が顔を上げた。
「少弐様」
「でも今回は行かない」
「本当ですか」
「今回はね」
ニカン先生がその一言を聞き逃さなかった。
「では、どこまで行かれるおつもりです?」
少弐は地図を巻きながら答えた。
「室蘭」
沈黙した。
須知が聞き返す。
「……室蘭?」
「うん」
「対馬では、少し北へ寄り道すると」
「そうだよ」
「室蘭は寄り道ではありません」
「でもここまで来たら――」
ニカン先生が遮った。
「まさか、初めからそのおつもりで?」
少弐は少しだけ目を逸らした。
ハウキが笑った。
「たぶん最初から」
「ハウキ」
「対馬から船に乗った時、少弐、北の海図も持ってた」
須知が少弐を見る。
「少弐様」
「……ちょっとだけだから」
「室蘭までを『ちょっと』とは申しません。」
少弐は聞こえないふりをした。
しかし、その手には二枚の地図がある。
大掾が南から伸ばした交易路。
かつて少弐たちが北から調べた航路。
それが明川で初めて繋がった。
ならば、この地図を持って室蘭へ行き、大掾たちの持つ北方の記録と重ねてみたい。
少弐にはもう、それを我慢する理由がなかった。
対馬から始まった「ちょっとだけ北へ」は、
水府坊を越え、
明川を越え、
ついに室蘭まで伸びることになった。




