ちょっとだけ北へ――予定になかった寄り道
対馬で宗氏との話がまとまると、少弐はようやく一息ついた。
商館を置く。
蔵を建てる。
港を使わせてもらう。
博多商人にも入ってもらい、対馬の商人や船乗りと一緒に動かす。
朝鮮との公式交易に用いる割札については、宗氏から「少弐家の歴史として持っていてほしい」と返され、写しだけを対馬に残すことになった。
これで今回の目的は、ほとんど達成した。
あとは神戸へ戻ればいい。
――はずだった。
宿へ戻ってから、少弐は海図を眺めていた。
須知左馬之助は帳面を整理している。
ニカン先生は宗氏との話で使った文書を確認している。
ハウキは横から海図を覗いていた。
そこで少弐の指が、朝鮮半島の東岸を北へ動いた。
止まった。
「……せっかくだから」
ニカン先生が顔を上げた。
嫌な予感がした。
「何でしょう」
「水府坊、行ってみない?」
須知の手が止まった。
少弐の指はさらに北へ動く。
「それから明川」
今度は須知が言った。
「少弐様」
「はい」
「我々は神戸へ戻るのでは?」
「戻るよ」
「方向が違います」
「ちょっとだけだから」
ニカン先生が海図を覗き込んだ。
対馬から朝鮮東岸へ入り、そこから北上する。
大掾が北方交易を広げる過程で新たに開いた水府坊と明川。少弐にとっても以前から気になっていた場所だった。
ニカン先生は静かに言った。
「だいぶ寄り道ですが」
「ちょっとだけ」
「ちょっとではありません」
「対馬まで来たんですよ?」
「対馬へ来ることが今回の目的でしょう」
「だから、ここからなら近くなった」
「神戸から見れば遠くなっております」
正論だった。
少弐は聞かなかった。
「大掾殿がせっかく新しく開いたんだよ」
水府坊。
明川。
名前だけ報告で読むのと、自分の目で見るのでは違う。
どんな港なのか。
何が集まるのか。
どんな人間がいるのか。
何を売れば喜ばれるのか。
何を神戸へ持って帰れるのか。
そして――
「どんな本があるかも分からない」
その一言で、須知が少し反応した。
少弐は見逃さなかった。
「左馬之助」
「……何でしょう」
「本の買い付けするんだろ?」
「その予定ですが」
「だったら行かなきゃ」
「なぜそうなるのです」
「朝鮮でも北へ行けば、南とは違うものがあるかもしれない」
須知が黙った。
少弐は今度はハウキを見る。
「ハウキ」
「俺は行ってもいい」
即答だった。
「ほら」
ニカン先生が言った。
「ハウキ殿を多数決に数えてはいけません」
「なんで?」
「あなたが知らない場所へ行こうと言えば、大抵賛成するでしょう」
ハウキが頷いた。
「知らないところなら見たい」
「ほら!」
「だから数えてはいけないと申しているのです」
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須知は海図を見た。
「神戸では黒田殿とシレトク殿が待っています」
「任せてきた」
「講和の約定もまだ決まっておりません」
「何かあったら早船が来る」
「商館の準備もあります」
「博多の商人に頼む」
「久太郎殿も神戸におります」
「四十郎とシレトクがいる」
一つずつ潰されていった。
須知は最後に聞いた。
「では、いつまでです?」
少弐は答えた。
「ちょっと」
「日数を聞いております」
「……ちょっとだけ」
「決めておられぬのですね」
少弐は海図へ目を戻した。
ニカン先生が深く息を吐いた。
「私は兵学館から対馬へ行くと聞いて借り出されたのですが」
「朝鮮も行けて得じゃないですか」
「そういう問題ではありません」
「先生の故郷でしょう?」
「朝鮮は広いのです」
少弐は笑った。
「だから見に行きましょう」
ニカン先生はしばらく少弐を見た。
それから諦めた。
「……本当に少しだけですよ」
「はい」
「水府坊と明川だけです」
「はい」
「途中で面白そうな港を見つけても寄らない」
少弐が黙った。
「返事を」
「努力します」
「約束してください」
「なるべく」
須知が頭を抱えた。
ハウキだけが楽しそうだった。
「北なら俺の仕事も増える」
「そうだろ?」
「少弐」
「何?」
「もっと北にも行く?」
「今回は行かない」
ニカン先生が即座に割って入った。
「今回は、です。」
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こうして、本来なら対馬から神戸へ帰るはずだった四人の船は、帰路とは違う方向へ舳先を向けることになった。
対馬で仕事は終わった。
少弐本人も、そのつもりだった。
ただ、海図を広げた。
その少し先に、まだ自分の目で見たことのない場所があった。
それだけで十分だった。
「水府坊を見て」
少弐が指を動かす。
「明川を見て」
それから神戸へ帰る。
「ちょっとだけだ」
須知がぼそりと言った。
「少弐様の『ちょっと』は信用しないことにいたします」
ニカン先生も頷いた。
「賢明です」
ハウキだけが笑った。
船は対馬を離れた。
神戸へ帰るはずだった少弐冬明の旅は、ほんの少し――
本人の言うところの「ちょっとだけ」――北へ伸びることになった。




