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海峡へ――少弐、対馬へ渡る

元亀四年(一五七三)三月半ば――神戸。


二月の戦から、ひと月あまりが過ぎていた。


夢野、鵯越、兵庫津を巡って羽柴勢と争った戦は、ひとまず止まっている。


佐野昌綱や丹羽長秀らが動いた戦線も静まり、双方とも兵を退き始めていた。


ただし、講和が成立したわけではない。


戦闘を止めるところまでは決まった。


その先が決まらない。


どこまで兵を退くのか。


何を互いに認めるのか。


捕虜や街道をどう扱うのか。


誰が何を保証するのか。


評定は続いている。


戦場では鉄砲が鳴らなくなったのに、机の上ではまだ戦が続いていた。


もっとも、少弐冬明には、そのひと月を評定所で過ごす暇などなかった。


播磨へ行った。


堺へ行った。


四国へも渡った。


商人を訪ね、蔵を頼み、問屋を頼み、造船所の話をつけた。


さらに黒田官兵衛と瀬戸内の船乗りたちを訪ね歩いた。


新しい坂東式海軍の中で居場所を失いつつあった者たちには、


――若いなら兵学館へ行けばいい。紹介状なら書く。


――だが、今働けるなら俺の下ではなく、横へ来てくれ。


そう言った。


船に乗ろう。


海を渡ろう。


朝鮮へ行こう。


その先はまだ決めていない。


地の果てに極楽があるのか地獄があるのか、それすら分からない。


だから一緒に見に行こう。


そんな口説き方をした結果、予想以上の者が神戸への移住を考え始めた。


有馬で療養していた堀久太郎も、傷が癒えたため神戸へ移した。


市中では好きに歩いていい。


ただし一人にはしない。


四十郎かシレトクのどちらかを必ずつける。


そして、ようやく三月半ば。


少弐は次の仕事へ移った。



---


「じゃあ、行ってくる」


あまりにも軽かった。


黒田官兵衛が聞いた。


「対馬へ、ですな」


「うん」


「講和について何か決まった場合は?」


「官兵衛に任せる」


「……私に?」


「シレトクとも相談して」


今度はシレトクが顔を上げた。


「俺もか」


「俺がいないんだから仕方ないだろ」


「何を決めていい」


「神戸のことなら大体」


官兵衛が眉間を押さえた。


「大体では困ります」


「俺だったらどうするかなって考えて」


「それが一番困るのです」


少弐は笑った。


もちろん、本当に何もかも任せるわけではない。


氏治や佐野の判断を必要とする重大事なら早船で知らせてもらう。


だが、神戸の日常的な問題まで対馬にいる少弐の返事を待たせるつもりはなかった。


船乗りが移住してきた。


どこへ住まわせる。


船が来た。


どこへ繋ぐ。


蔵が足りない。


人足をどうする。


そんなことは官兵衛とシレトクで決めればいい。


「俺が帰ってくるまで町を止めないで」


それだけだった。



---


今回連れていくのは三人。


まず須知左馬之助。


これから交易、とりわけ書物の買い付けを任せていく男だった。


次にハウキ。


北方で知らない土地を歩き、現地の人間と接触してきた経験がある。


そして兵学館から一時的に借りた朝鮮出身のニカン先生。


少弐自身も朝鮮語は話せる。


しかし今回は商館、交易、割札、書状といった話になる。


「俺の朝鮮語が間違ってたら止めてください」


「そのために私を連れていくのですか」


「はい」


「教師の使い方がおかしい」


ニカン先生は呆れていた。


それでも来てくれた。


四人だった。


少弐。


須知。


ハウキ。


ニカン先生。


目的地は対馬。


本来なら途中の港を回りながら西へ行くところだが、今回は違った。


少弐は急いでいた。


停戦がいつまで続くか分からない。


正式な約定もまだ成立していない。


今のうちに、対馬との話だけは終わらせておきたい。


「今回は寄り道なし」


少弐が宣言した。


須知が聞いた。


「本当に?」


「本当に」


ハウキが笑った。


「少弐が言うと信用できない」


「俺だって急ぐときは急ぐよ」


神戸を出た船は、途中で商談のために寄港することもなく西へ向かった。


少弐にしては珍しい、ほとんど一直線の航海だった。



---


数日後。


対馬。


宗氏との会見が整えられた。


宗側は少弐一行を丁重に迎えた。


しかし、その丁重さの奥には明らかな警戒があった。


当然だった。


やって来た男の姓は――少弐。


かつて宗氏が従った家である。


しかも冬明は、ただ古い名字を持っているだけではない。


朝鮮との正式な交易に用いる割札を持つ。


朝鮮側からも単なる一商人ではなく、正式な交渉相手として扱われる立場を得ている。


大友からも利益活動を認められている。


背後には小田氏治。


そして畿内には佐野昌綱がいる。


宗家では、少弐が何を要求してくるのか、いくつもの可能性を考えていた。


旧来の主従関係の復活。


対馬における少弐家の権利。


港の直轄化。


代官の設置。


最悪なら、


対馬そのものを少弐の直轄支配下へ置け。


そう要求されることまで想定していた。


少弐には、それを言い出すだけの材料が揃っていた。


だから宗側は覚悟して席についた。


少弐が口を開いた。


「最初に一つだけ」


来た。


宗側が身構える。


「昔みたいな関係に戻ってください、という話ではありません」


「…………」


いきなり想定から外れた。


「宗家は宗家のままでいいでしょう」


宗側の者が少弐を見る。


「……では、我らとの関係をいかように?」


「横で」


「横?」


少弐は自分の隣を指した。


「横に並んで、一緒に仕事してください。」


宗側はまだ理解できなかった。


少弐は続ける。


「俺が欲しいのは対馬じゃないです」


さらに理解できない。


「対馬を治めるのは、今まで通り宗殿たちがやってください」


「少弐殿は……領有を求められぬ?」


「いらないです」


即答だった。


「では、何を?」


ようやく本題が来た。


少弐は指を一本立てた。


「商館を建てたい」


二本目。


「蔵も欲しい」


三本目。


「それから港を使わせてください」


宗側が黙った。


それだけなのか。


少弐は続けた。


土地は借りる。


必要なら借料を払う。


港を使えば役銭も払う。


宗氏の港の決まりにも従う。


朝鮮との外交上、宗氏に相談すべきことは相談する。


大友から少弐の利益活動については認められているが、それを対馬支配の根拠にするつもりはない。


「神戸から朝鮮まで商いをしたいんです」


少弐は言った。


「だから対馬にも一緒に儲けてもらいたい」


宗側にとって、悪い条件ではなかった。


むしろ――


ありがたい。


船が増える。


荷が増える。


人が泊まる。


水や食料を買う。


修繕もする。


対馬の船頭、商人、通詞にも仕事が増える。


しかも宗氏の政治的独立には手を触れない。


断る理由が見つからない。


だからこそ、宗側の頭が追いつかなかった。


「……少弐殿」


「はい」


「本当に、それだけで?」


「あと博多の商人を呼びたい」


ようやく追加条件が来た。


しかし、それも人手不足を補うためだった。


「俺たちだけで商館を作ったら、人が足りなくなるでしょう。対馬から引き抜きすぎても困る。だから博多から商館を動かせる人を呼びます」


帳付け。


蔵番。


商人。


人足頭。


必要な職人。


博多から人を入れ、対馬の者と一緒に働かせる。


「……それも、我らに相談の上で?」


「勝手に連れてきたら怒るでしょう?」


宗側がまた黙った。


理屈は分かる。


全部、分かる。


なのに、


脳が理解を拒んでいた。


これだけの政治的な札を持った少弐が、何一つ奪おうとしない。



---


そして、極めつけが最後だった。


「ああ、それと」


少弐が懐から包みを出した。


朝鮮との正式交易に用いる割札だった。


「これ、宗殿に預けておきます」


「……は?」


「対馬にあった方が便利でしょう」


宗側の者が慌てた。


「お待ちくだされ」


「はい?」


「それは受け取れませぬ」


今度は少弐が理解できない。


「なんで?」


「気安く受け取れるものではございませぬ」


宗氏は割札を少弐へ戻した。


「これは少弐殿が海を渡り、朝鮮と交渉して得られたものでしょう」


「そうですけど」


「ならば、少弐家がお持ちくだされ」


「でも使うのはこっちでしょう?」


「写しで足ります」


宗氏は静かに言った。


「我ら宗には、対馬と朝鮮の間を繋いできた歴史があります」


そして割札を指す。


「ですが、少弐家にも歴史はある」


昔、宗氏を従えていた歴史だけではない。


冬明自身が海を渡った。


朝鮮へ行った。


話し合った。


そして正式な交易への道を作った。


「その歴史まで、我らに預けてはいけませぬ。」


少弐は黙って割札を見た。


ニカン先生も何も言わなかった。


須知も黙っている。


ハウキだけが少弐の顔を見ていた。


「……じゃあ持って帰ります」


宗氏が頷いた。


「それがよろしい」


「写しだけ置いていきます」


「ありがたく」


話はまとまった。



---


会見が終わり、少弐たちが退出したあと。


宗家の者たちはしばらく無言だった。


一人がようやく口を開いた。


「……何だったのだ?」


別の者が答えた。


「商館を建てたいそうだ」


「それは分かっている」


「港も使う」


「役銭を払うと言った」


「蔵も建てる」


「自分で銭を出す」


「博多商人まで連れてくる」


「対馬にも利がある」


沈黙した。


「……対馬は?」


「いらぬそうだ」


また沈黙。


彼らが何日もかけて考えた対策の大半が無駄になった。


昔の主従を持ち出された場合。


港を要求された場合。


直轄地を要求された場合。


宗家の臣従を求められた場合。


そのどれでもなかった。


少弐は対馬を取りに来たのではない。


対馬と一緒に、その先へ行こうとしている。


宗氏にとって条件はありがたい。


だから受け入れる。


ただ――理解するには少し時間が必要だった。


そのころ少弐は宿で須知たちに言っていた。


「思ったより簡単にまとまったな」


ニカン先生が少弐を見た。


「……あなたは、そう思っているのですね」


「違うの?」


誰も答えなかった。


少弐だけが呑気だった。


こうして元亀四年三月半ば。


戦の約定さえまだ決まらぬ間に、神戸から朝鮮へ伸びる海の道には、対馬という新しい中継点が組み込まれることになった。

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