兵庫津ではなく――神戸
ライラからジェノヴァとヴェネツィアの話を聞き終えても、少弐冬明はすぐには次の話へ進まなかった。
広げた地図の上には、まだ「兵庫津」と書かれている。
少弐はそこを指で押さえた。
「俺がジェノヴァやヴェネツィアの話を聞いて、いいなと思ったのは、商売とか船だけじゃないんだ」
黒田官兵衛が顔を上げた。
「統治の仕組みでございますか」
「うん」
少弐は頷いた。
「だって今だってそうだろ?」
皆を見る。
「今回の戦だって、俺一人で決めたわけじゃない」
羽柴秀吉をどう迎えるか。
どこで戦うか。
いつ退くか。
誰を山へ入れるか。
どう兵糧を断つか。
どこまで追うか。
黒田官兵衛の知恵を借りた。
赤井直正の武と経験を借りた。
赤木甚兵衛の悪知恵を借りた。
阿波辺岩蔵には山を任せた。
シレトクたちには、自分には到底できない山中の戦いを任せた。
「それに、さっき聞いたばかりだ」
少弐は官兵衛と直正を見る。
「これから畿内がどうなる。播磨がどうなる。俺には分からないから二人に聞いた」
直正が少し眉を寄せた。
「何が言いたい」
「俺は凡将だってこと」
少弐はあっさり言った。
◇
「少弐様」
官兵衛が何か言おうとした。
だが少弐が手を上げた。
「いいんだ」
自嘲ではなかった。
少弐自身、それを恥じてもいない。
「俺は何でもできる人間じゃない」
海のことならマリアに聞く。
異国のことならライラに聞く。
病のことならイネスや医師に聞く。
山ならシレトク。
播磨なら官兵衛。
丹波なら直正。
山中の悪さなら岩蔵や甚兵衛。
「分からないことを俺一人で決めたら、たぶん間違える」
少弐は笑った。
「だから皆に力を借りてる」
ライラが少弐を見ていた。
少弐は続ける。
「でも今までは、それでよかったんだ」
「今までは?」
岩蔵が聞く。
「俺が誰かを呼んで、『どう思う?』って聞けばよかった」
だが兵庫津が大きくなれば、それでは足りない。
商人が増える。
職人が増える。
船乗りが増える。
国人が出入りする。
異国人も来る。
北方からも人が来る。
「俺が全部に口を出して、全部決めるなんて無理だよ」
官兵衛が静かに聞いていた。
「だから――」
少弐は言った。
「これからは、皆がこの港のために力を出し合える仕組みにしたい」
◇
直正が尋ねた。
「評定を常に置くということか」
「それもある」
「商人も入れる?」
官兵衛が聞く。
「入れたい」
「武士だけではなく?」
「うん」
「寺社は」
「必要なら」
「船乗りは?」
ライラが聞いた。
「もちろん」
「異国人も?」
「ここで暮らして、この港を支えてくれるなら」
少弐は即答した。
官兵衛は考え込んだ。
大名の評定とは違う。
家臣だけで決めるのではない。
かといって堺の会合衆そのままでもない。
少弐という領主はいる。
小田氏という主家もある。
赤松という播磨守護の権威も残す。
その中に、港だけを運営する別の仕組みを作ろうとしている。
「まだ形は決めてない」
少弐が言った。
「だから、それも皆で決めたい」
直正が笑った。
「仕組みを決める仕組みから相談するのか」
「だって分からないし」
「徹底しているな」
◇
そこで少弐は一度話を切った。
「その前に」
「まだあるのか」
「一つ、皆に聞きたい」
少弐は地図を引き寄せた。
指先が一点で止まる。
兵庫津。
「この名前なんだけど」
官兵衛が眉を上げる。
「兵庫津が?」
「俺、前からちょっと気になってたんだ」
少弐は文字を見る。
「兵庫って、兵を置くところだろ?」
「元をたどれば、そういう意味合いはございますな」
「兵を詰める港」
少弐は首を振った。
「俺には、あんまり似合わない」
岩蔵が笑った。
「これだけ兵を集めておいて何を言っている」
「必要だから集めたんだよ」
「虎衆まで二千もいるぞ」
「だから戦が終わったら別の仕事をしてもらうんだろ」
シレトクが頷いた。
「薬草も採ってる」
「そう。それ」
少弐は笑った。
「俺は兵が集まる街にしたいんじゃない」
◇
港へ船が来る。
荷物が来る。
人が来る。
北からも。
西からも。
海の向こうからも。
「だから名前を変えたい」
広間が少し静かになった。
官兵衛が尋ねる。
「何と?」
少弐は答えた。
「神戸」
「こうべ?」
「うん」
少弐は地図の「兵庫津」を指でなぞった。
「神に守られている港」
そしてシレトクを見る。
「俺たちの言葉だけじゃない」
シレトクが少弐を見る。
「北で教えてもらった言い方なら――」
少弐は少し笑った。
「カムイが守るコタンだ」
◇
シレトクが目を細めた。
「カムイが守るコタン」
「変かな?」
シレトクは首を横に振った。
「いいと思う」
「本当?」
「うん」
少弐は少し安心した。
「俺はいろんなところを旅してきた」
海が荒れれば祈った。
山へ入れば、その土地の者が山の神について教えてくれた。
熊にもカムイがいる。
海にもいる。
火にもいる。
人間だけで生きているわけではない。
「ここも同じでいいと思うんだ」
どの神を信じるかまで決める必要はない。
寺の者もいる。
神社の者もいる。
異国の神を信じる者もいる。
北方から来た者にはカムイがいる。
「それぞれ違ってもいい」
少弐は言った。
「ただ、この港は人間だけの力でできたと思わない方がいい」
海がある。
山がある。
水がある。
風がある。
そして人が集まる。
「だから神戸」
少弐は皆を見る。
「どうかな」
◇
最初に答えたのはライラだった。
「私は好きだ」
「本当?」
「ああ」
少し膨らみ始めた腹へ手を添えながら、ライラは笑った。
「この子が生まれる街なら、兵の倉より神に守られた港の方がいい」
少弐は一瞬言葉を失った。
「……それはずるいな」
「何がだ」
「反対できなくなる」
「自分で言い出したんだろう」
岩蔵が笑った。
直正も笑う。
官兵衛だけは地図を見ていた。
兵庫津。
その古い文字の上に、まだ書かれていない二文字を見るように。
「神戸……」
官兵衛が呟いた。
「悪くございませぬな」
「官兵衛も?」
「はい。ただし」
官兵衛は少弐を見る。
「名を変える以上、中身も変えていただかねばなりませぬ」
「もちろん」
「兵庫津から神戸へ」
官兵衛は笑った。
「ならば本当に、兵を置くだけの港ではなくしていただきましょう」
「そのつもりだ」
◇
少弐は地図を見下ろした。
まだ正式に決まったわけではない。
赤松にも話す。
土地の寺社にも話す。
商人にも話す。
氏治にも、佐野にも報告する。
勝手に今日から変えてしまうつもりはなかった。
だから少弐は言った。
「正式には、次の大評定で皆に諮ろう」
そしてもう一度、その名を口にする。
「神戸」
兵を蓄える港ではない。
誰か一人のためだけの城下町でもない。
海から来た者。
山から来た者。
北から来た者。
異国から来た者。
そして、ここに昔から暮らす者。
皆が力を出し合って守る港。
少弐冬明が思い描いたものは、まだ名前しかなかった。
だがその日、清盛館の小さな評定で――
「カムイに守られたコタン――神戸」
という新しい街の姿が、初めて言葉になった。




