戦のあとの地図
評定が終わると、少弐冬明は立ち上がっていく諸将を見送りながら、何人かだけを呼び止めた。
「シレトク。岩蔵。それと官兵衛、赤井殿は残って」
阿波辺岩蔵が座り直す。
シレトクも何も言わず元の場所へ戻った。
黒田官兵衛と赤井直正は、互いに一度だけ目を合わせた。
少弐がこの四人を残した理由は何となく分かる。
人が減り、広間が静かになる。
少弐は地図を広げた。
「さっきの話なんだけど」
指を置いた。
山城。
摂津。
丹波。
そして播磨。
「官兵衛。赤井殿」
「はい」
「なんだ」
「このあと、どうなると思う?」
直正が眉を上げる。
「何がだ」
「畿内と播磨」
少弐は地図を軽く叩いた。
「戦が終わるとして、そのあとだよ」
◇
最初に答えたのは官兵衛だった。
「まず、すぐには落ち着きませぬ」
「やっぱり?」
「はい」
官兵衛は山城を指した。
「織田殿は停戦そのものには応じるでしょう。今さらに兵を失ってまで戦線を維持する意味が薄い」
羽柴は播磨から退いた。
丹羽も後退した。
佐久間、滝川も大和方面から兵を引く。
織田方からすれば、一度戦線を整理する以外にない。
「ですが、問題は義秋公です」
「さっき言ってたな」
「義秋公にとって今回の結果は、単なる敗戦ではありませぬ」
将軍の命令によって動いた軍勢が押し戻された。
しかも佐野昌綱は、その結果を利用して比叡山付近までを新たな境として固定しようとしている。
「認めたくない?」
「認めれば、自ら始めた戦で自らの権威を削ったことになります」
少弐は顔をしかめた。
「でも認めなかったら?」
「兵がおりませぬ」
「……面倒だな」
「ゆえに交渉が長引くのです」
◇
「俺は丹波の方が面倒だと思うがな」
赤井直正が口を挟んだ。
「丹波?」
「羽柴は帰った。明智も主力を置いておけん」
直正の太い指が丹波へ落ちる。
「だが織田が丹波を捨てたわけではない」
少弐が頷く。
明智側は最低限の秩序を維持するため、光満らに精鋭を預けている。
「俺が播磨にいる」
直正は言った。
「それだけで丹波の連中は動く」
「赤井殿が帰ってくると思う?」
「思う奴もいる。期待する奴もいる。そして――」
直正が笑った。
「帰ってくるなと思う奴もいる」
「ああ……」
少弐にも分かった。
丹波の国人同士にも長年の争いがある。
赤井直正が生きて播磨にいるというだけで、丹波の政治は揺れる。
「だから俺は、しばらく丹波へ入らん方がいい」
少弐は少し驚いた。
「帰らないの?」
「今帰れば戦になる」
直正は即答した。
「せっかく終わったばかりだろう」
少弐は笑った。
「赤井殿からそんな言葉を聞くとは思わなかった」
「俺を何だと思っている」
「赤鬼」
「殴るぞ」
◇
「では播磨は?」
少弐が聞いた。
官兵衛と直正が、今度は播磨を見る。
官兵衛が先に答えた。
「こちらも、今が一番危ういでしょう」
「勝ったのに?」
「勝ったからです」
少弐が黙る。
「羽柴殿が去りました」
「うん」
「織田方の大軍がすぐに戻ってくる可能性も低い」
「うん」
「すると、播磨の国人たちは次のことを考え始めます」
「誰につくか?」
「はい」
すでに始まっている。
東部や南部の国人が少弐へ臣従を申し出てきた。
「今は少弐様のところへ集まっております。ですが――」
官兵衛が少弐を見る。
「彼らが少弐様を好きだから来ている、とだけ考えてはなりませぬ」
「分かってる」
「羽柴を退けたから来た者。兵庫津の商いに期待する者。赤井殿を恐れる者。私との縁で来た者。隣の国人に遅れまいとして来た者」
理由はそれぞれ違う。
「戦が終われば、それぞれの欲も出ます」
◇
直正が続けた。
「それと赤松だ」
「赤松氏?」
「播磨守護の旗はどうする」
少弐は即答した。
「赤松でいいよ」
官兵衛が少し笑った。
「やはりそう仰いますか」
「俺が播磨守護になってどうするんだ」
「普通なら喜ぶところですが」
「いらない」
少弐は地図上の兵庫津を指した。
「俺はここがあればいい」
直正が鼻を鳴らした。
「お前がそう思っても、周りがそう見るとは限らん」
「どういうこと?」
「羽柴を追い返した」
一つ。
「播磨国人が集まった」
二つ。
「赤井直正がいる」
三つ。
「黒田官兵衛もいる」
四つ。
「北から来た妙な兵までいる」
シレトクが顔を上げた。
「俺たち?」
「お前たちだ」
「妙?」
「かなり妙だ」
シレトクは少し不満そうだった。
直正は少弐を見る。
「これだけ揃えて『私は兵庫津の商人みたいなものです』と言って、誰が信じる」
「……俺、そんなに怪しい?」
「怪しい」
「かなり」
直正と官兵衛がほぼ同時に答えた。
岩蔵が笑った。
◇
「では、どうするべきだと思う?」
少弐が尋ねた。
官兵衛は少し考えてから答えた。
「旗は赤松に残すべきでしょう」
「やっぱり?」
「はい。播磨守護という古い権威を、わざわざ少弐様が奪う必要はございませぬ」
赤松を立てる。
その下で播磨国人の秩序を整える。
だが兵庫津とその周辺は少弐が直接押さえる。
「そして、国人を土地だけで結びつけないことです」
「土地以外?」
「商いです」
少弐の表情が変わった。
「兵庫津で米が売れる。薪が売れる。材木が売れる。魚が売れる。紙が売れる。塩が売れる」
国人にとって、
少弐に従えば領地が増える
ではなく、
少弐と争わなければ領地が豊かになる
という構造を作る。
「それなら戦う理由そのものが減ります」
「なるほど」
◇
ここで、それまで黙っていた岩蔵が言った。
「だが、山はどうする」
「山?」
「兵庫津の後ろだ」
六甲。
有馬。
丹波へ抜ける道。
「街がでかくなれば、山を押さえなければまた同じことになるぞ」
少弐は地図を見る。
正しい。
港だけ持っていても駄目なのだ。
後背地。
水源。
街道。
峠。
「岩蔵ならどうする?」
「砦を置く」
即答だった。
「大きな城はいらん。山道を見る場所を何か所か作る」
そして山を知る者を置く。
兵庫津そのものに大軍を常駐させるより安い。
「虎衆も使える」
シレトクが言った。
「山なら見る」
「ずっと置いていい?」
「交代なら」
「なるほど」
◇
少弐は最後に官兵衛へ聞いた。
「官兵衛」
「はい」
「結局、このあと一番危ないのはどこ?」
官兵衛は地図全体を眺めた。
山城。
丹波。
摂津。
播磨。
備前。
しばらくして、指を置いた。
播磨だった。
「ここです」
「やっぱり?」
「ただし、織田がすぐ攻めてくるからではございません」
「じゃあ何?」
「勝者が決まっていないからです」
少弐は黙った。
「織田は退いた。ですが少弐様は播磨を征服していない。赤松は残っている。国人も残っている」
つまり空白ができた。
「この空白を、誰がどのような形で埋めるか」
それが次の争いになる。
「力で埋めれば、また戦になります」
「商いで埋めれば?」
官兵衛が笑った。
「それをなさりたいのでしょう?」
「うん」
少弐も笑った。
直正が呆れたように腕を組む。
「なら早くやれ」
「何を?」
「街を作るんだろう」
少弐は兵庫津の印を見た。
港。
有馬。
六甲。
播磨の国人。
瀬戸内。
その先の海。
「そうだな」
戦で勝っただけでは何も終わらない。
むしろ――ここからだった。
少弐は地図の上の兵庫津という文字を指でなぞった。
まだ、その名を変えるつもりでいることは、この場では口にしなかった。




