湯の里の名医――水無瀬道石
天正元年――一五七三年五月上旬。
有馬は、もはや湯治場と呼ぶには少々物騒な場所になっていた。
軒先には洗った晒が干され、湯治客が泊まるはずだった部屋には負傷兵が寝かされている。湯を運ぶ者、薬を煎じる者、傷を洗う者が絶えず行き交っていた。
少弐冬明が羽柴との戦いで出た負傷者を、敵味方を問わず有馬へ運ばせたためである。
いつの間にか有馬は、巨大な野戦病院になっていた。
そして、その中を一人の医師が毎日歩いていた。
水無瀬道石。
もともと有馬へ来る予定などなかった。
◇
山城で戦火が広がる気配を察した道石は、患者や知人を頼りながら西へ逃れ、播磨まで来ていた。
有馬ならば戦場からも離れている。
湯治場ゆえ宿もある。
しばらく身を寄せ、情勢が落ち着けば別の場所へ移るつもりだった。
ところが、羽柴秀吉が兵庫津方面へ迂回するという情報は徹底して伏せられていた。
道石がそれを知ったころには、もう遅かった。
街道には兵が動き、山には斥候が入り、どこが安全なのかさえ分からない。
「……動かぬ方がましか」
そう判断して、有馬に留まった。
すると今度は戦が終わり――。
山から負傷者が降りてきた。
一人。
二人。
十人。
それが何十、何百となった。
「なんだ、これは」
道石は呆然とした。
「少弐様の命でございます」
「なぜ敵兵までいる」
「息がある者は運べ、と」
「誰が診るのだ」
兵は困った顔をした。
「……医者を探しております」
道石は目を閉じた。
見なかったことにすればよかった。
自分は戦に関係ない。
ただ避難してきただけだ。
だが、目の前では若い兵が血を流している。
「湯を沸かせ」
「は?」
「綺麗な布を集めろ。酒も持ってこい」
「先生は?」
「医者だ」
結局、そうなった。
◇
ほどなく少弐本人からも頼まれた。
「お願いします」
少弐は頭を下げた。
「……軽いな」
「何が?」
「医者一人に、何人診せるつもりだ」
「だから手伝える者も付けます」
「そういう問題ではない」
「じゃあ、どういう問題?」
道石は少弐を睨んだ。
少弐も困った顔をしている。
どうやら本当に分かっていないらしい。
「冬明殿」
「はい」
「私は湯治に来たのではないぞ」
「知ってます」
「戦から逃げてきたのだ」
「それも聞きました」
「なのになぜ、逃げた先が戦場より怪我人だらけなのだ」
「……申し訳ない」
少弐が本気で謝ったので、道石もそれ以上言えなくなった。
「敵味方を分けるか」
「分けません」
返事だけは早かった。
「治る者から治してください」
道石は少弐を見た。
「羽柴の兵でも?」
「お願いします」
「金は」
「俺が払います」
「薬代も?」
「払います」
「高いぞ」
「……なるべく加減してください」
道石は少し笑った。
「分かった」
こうして水無瀬道石は、正式に有馬の負傷者を診ることになった。
◇
それから道石の日々は忙しかった。
「次」
傷を見る。
「これは縫わずともよい。洗って巻け」
「次」
熱を見る。
「こいつは別室だ。他の者と離せ」
「次」
「先生、これは羽柴方です」
「だから何だ」
「いえ」
「傷口は敵味方を見分けん」
道石にとって、戦場でどちらの旗を背負っていたかなど関係なかった。
治る者は治す。
危ない者はよく見る。
助からぬ者には、せめて苦しまぬようにする。
それだけだった。
やがて有馬では、
「道石先生に見てもらえ」
という言葉が当たり前になった。
少弐軍の兵も。
播磨の国人も。
羽柴方の捕虜も。
同じ医師に診てもらっていた。
◇
そんなある日。
「先生」
「今度は何だ」
「新しい者が来ました」
道石は薬研から顔を上げなかった。
「怪我人か」
「一応」
「一応とは何だ」
「捕虜です」
「怪我をしているなら連れてこい」
「それが……堀久太郎殿で」
道石の手が止まった。
「堀?」
「はい」
「織田の?」
「はい」
道石はゆっくり顔を上げた。
「どうしてそんなものが有馬に来る」
「黒田官兵衛殿が捕まえました」
「……ここは何なのだ」
「有馬です」
「それは知っている」
◇
ほどなく須知左馬之助景綱に伴われ、若い男が現れた。
「水無瀬道石先生でございます」
景綱が紹介した。
久太郎が頭を下げる。
「堀久太郎秀政にございます」
「知っている」
道石は久太郎を見る。
そして、その横の景綱を見る。
もう一度、久太郎を見る。
「お前が監視役か」
「はい」
「羽柴方ではなかったか」
「少し事情がありまして」
「聞きたくない」
「そうですか」
「聞いたら長くなる顔をしている」
景綱は笑った。
道石は久太郎の前へ座った。
「傷を見せろ」
「大したものではございませぬ」
「それを決めるのは医者だ」
久太郎が黙って従う。
道石は手早く確認した。
致命傷はない。
戦場から運ばれてきた者たちに比べれば、ずっと軽い。
「若いな」
「は」
「丈夫だ」
「ありがとうございます」
「しばらく湯に入って休め」
久太郎が少し戸惑った。
「捕虜なのですが」
「私は知らん」
「は?」
「冬明殿から言われている。ここへ来た者は敵味方なく診ろ、と」
道石は薬を片付けた。
「ここでは患者だ」
◇
景綱が説明した。
「少弐様より、湯治場の区画内なら自由にしてよいとのことです」
「自由?」
久太郎が聞き返す。
「湯も入れます。散歩もできます。飯も普通に出ます」
「牢は」
「ありません」
「……ない?」
「清盛館にも捕虜を置くような牢がなかったそうで」
久太郎は黙った。
織田家中で育った彼にも、どう理解していいのか分からなかった。
戦場で捕らえられた。
黒田官兵衛に殺されなかった。
清盛館へ連れていかれた。
少弐冬明と話した。
そして今度は――有馬温泉である。
「逃げぬよう私が見ております」
景綱が言った。
「そなたが?」
「はい」
久太郎は景綱を見る。
「羽柴殿から殿を任されておきながら、死者の下へ隠れて生き残った男が?」
「左様」
「……大丈夫なのか」
「生き残ることについてなら、お任せください」
「そこを心配しているのではない」
少し離れたところで聞いていた道石が笑った。
◇
その日の夕刻。
道石は再び負傷者たちの間を歩いていた。
少弐兵。
羽柴兵。
播磨衆。
そして織田家の若い近習。
すべて同じ有馬の湯気の中にいる。
「妙なところへ逃げてきたものだ」
道石は呟いた。
山城の戦火を避けて西へ逃げた。
安全な場所を求めて有馬へ来た。
ところが逃げた先は、戦が終わった途端に巨大な野戦病院になった。
そして今では、戦の行方を左右しかねない捕虜までいる。
道石はため息をついた。
「冬明殿に関わると、ろくなことにならんな」
そう言いながらも、次の患者の前へ座った。
「傷を見せろ」
医者である以上、見てしまったものを放ってはおけない。
それだけは――。
戦がどちらへ転ぼうと変わらなかった。




