若き捕虜、清盛館へ
天正元年――一五七三年五月上旬。
羽柴秀吉を播磨から退けてから、まだそれほど日が経っていなかった。
少弐冬明は兵庫津の清盛館に戻っていた。
負傷者の多くは有馬へ移し、兵庫津には戦後の秩序が戻り始めている。
そんな清盛館へ、黒田官兵衛が帰ってきた。
「少弐様」
「おかえり」
「ただいま戻りました」
官兵衛の顔を見て、少弐はまず安心した。
「佐野殿は?」
「ご無事です」
「よかった」
「丹羽殿も退きました」
「……追い返したの?」
「結果としては」
少弐は官兵衛を見た。
「俺、助けてこいとしか言わなかったよな」
「はい」
「勝ってこいとは言ってない」
「はい」
「まあ、いいか」
官兵衛が微笑んだ。
「それと、土産がございます」
「土産?」
「はい」
「何?」
「人です」
「人を土産って言うなよ」
官兵衛が横へ視線を向けた。
そこに若い男が立っていた。
◇
「堀久太郎秀政にございます」
若い。
少弐が最初に思ったのはそれだった。
「少弐冬明だ」
「存じております」
「座っていいよ」
久太郎は少し戸惑ってから座った。
縄はない。
武器こそ預けさせられているものの、扱いも普通の客人と大差なかった。
少弐は官兵衛を見る。
「この人が土産?」
「生きている方が価値があると思いまして」
「まあ、それはそうだけど」
久太郎の眉がわずかに動いた。
「聞こえております」
「ごめん」
少弐は素直に謝った。
官兵衛が咳払いした。
「丹羽殿の撤退を助けるため、最後まで残りました」
「へえ」
少弐が久太郎を見る。
「強かった?」
「なかなか」
「官兵衛がそう言うなら、本当に強いんだな」
久太郎は何も言わなかった。
だが若者らしい意地は残っている。
少弐はそれ以上、戦の話を続けなかった。
「帰りたい?」
突然だった。
久太郎が顔を上げる。
「……無論にございます」
「織田殿のところへ?」
「無論」
「そうか」
少弐は頷いた。
「じゃあ帰れるように佐野殿に頼んでおく」
久太郎が黙った。
「何?」
「……それだけでございますか」
「何が?」
「私から何も聞かぬので?」
「何か話したいことがある?」
「そういう意味ではございませぬ」
久太郎は官兵衛を見た。
官兵衛は知らぬ顔をしている。
「織田家の内情なり、軍勢なり」
「聞いて答えてくれるの?」
「答えませぬ」
「じゃあ聞いても仕方ないだろ」
久太郎は完全に黙ってしまった。
◇
だが少弐には、別に聞きたいことがあった。
「丹羽殿って、どんな人?」
「……は?」
「だから丹羽長秀殿」
「なぜそれを」
「戦ったんだろ。どんな人だったのかなって」
久太郎は少し考えた。
「律儀なお方にございます」
「羽柴殿とは仲いい?」
「少弐殿」
「うん」
「これは尋問なのでしょうか」
「違うよ」
少弐は少し考えた。
「じゃあ織田殿は?」
久太郎の警戒が戻る。
「どのようなお方か、と?」
「甘いもの好き?」
「……存じませぬ」
「そうか」
官兵衛が横を向いた。
肩が少し震えている。
「官兵衛、笑ってる?」
「いえ」
「笑ってるだろ」
「滅相もございませぬ」
久太郎はますます少弐という男が分からなくなっていた。
ところが、しばらくして少弐が尋ねた。
「織田殿は海をどう考えてる?」
空気が変わった。
久太郎が少弐を見る。
「海……」
「堺だけじゃない。紀伊も播磨も瀬戸内も」
少弐は静かに続けた。
「織田殿は、海へ出たい人なのかな」
久太郎は答えなかった。
少弐も催促しなかった。
「答えたくないならいいよ」
「……申し訳ございませぬ」
「いいって」
少弐は笑った。
「俺が知りたいだけだから」
◇
話が終わったところで、現実的な問題が出てきた。
清盛館には久太郎を長く置けない。
「ここ、捕虜を入れるところないんだよな」
官兵衛が頷く。
「牢を造りますか」
「いらないよ」
「では?」
「有馬へ連れていこう」
負傷者の治療も続いている。
警備する兵もいる。
何より有馬には、少弐方が管理している湯治場の区画がある。
「そこなら一人くらい置けるだろ」
「逃げられませんか」
「逃げたい?」
少弐が久太郎本人に聞いた。
久太郎が呆れたような顔をした。
「聞くのでございますか」
「大事だろ」
「……今逃げても、織田方までたどり着けるとは思いませぬ」
「じゃあ大丈夫だ」
「少弐様」
官兵衛が口を挟む。
「一応、捕虜です」
「分かってるよ」
◇
少弐は須知左馬之助景綱を呼んだ。
「景綱」
「はっ」
「頼みたいことがある」
「何でしょう」
少弐は久太郎を指した。
「この人の護衛」
「護衛?」
「それと監視」
景綱が久太郎を見る。
久太郎も景綱を見る。
景綱はつい最近まで羽柴軍にいた。
しかも秀吉から殿隊長を任され、討死したと思われている男である。
「……須知左馬之助?」
久太郎が呟いた。
景綱が笑った。
「久太郎殿。お久しゅうございます」
「生きていたのか」
「はい」
「討死したと……」
「少々、死んだふりを」
久太郎が固まった。
少弐が補足した。
「死者の下に隠れてたらしい」
「少弐様、それは私から説明いたします」
「本当だろ」
「本当ですが」
久太郎は景綱を見たままだった。
「羽柴殿は、そなたが死んだと思っておられるぞ」
「でしょうな」
「戻らぬのか」
「戻りませぬ」
「なぜ」
景綱は笑った。
「世界を見たくなりまして」
久太郎には意味が分からなかった。
◇
少弐は二人を見ながら言った。
「景綱。久太郎殿を有馬へ連れていってくれ」
「承知」
「ただし閉じ込めなくていい」
久太郎が少弐を見る。
「湯治場の区画から外へ出なければ自由でいい。湯に入ってもいい。散歩してもいい。飯も普通に出してくれ」
「よろしいので?」
「逃げないようには見ていて」
「もちろん」
「それと何か欲しいものがあったら、危なくないものなら渡していい」
官兵衛が呆れた。
「ずいぶん待遇のよい捕虜ですな」
「若いのに殿をやって生き残ったんだろ」
少弐は久太郎を見る。
「休んでもらえばいいじゃないか」
久太郎は少しだけ頭を下げた。
「……かたじけない」
◇
最後に久太郎が尋ねた。
「少弐殿」
「何?」
「停戦の話し合いには、そなたも出られるのでしょうか」
「出ないよ」
即答だった。
「なぜにございます」
「近畿の話だから」
「しかし、そなたも戦われた」
「俺は兵庫津を守っただけだ」
久太郎は納得していない顔をした。
「山城や近江をどうするかは佐野殿が決める。官兵衛が捕まえたあなたたちをどう交渉に使うかも、佐野殿に任せる」
「では、少弐殿は?」
少弐は少し考えた。
窓の向こうには兵庫津の海が見えていた。
船が入ってくる。
荷が降ろされる。
商人が行き交う。
「俺は――」
海を見る。
「海のことを考えるよ」
久太郎も、その視線を追った。
比叡山まで押し戻された境をどう定めるか。
捕虜をどう返すか。
織田とどこで線を引くか。
それは佐野昌綱に任せる。
少弐冬明が見ているのは、別の方向だった。
兵庫津から瀬戸内へ。
その先の対馬へ。
さらに海の向こうへ。
そして北へ。
戦が終われば、次に作るものがある。
その前に少弐は、有馬へ向かう若い捕虜と、その監視役となった「死んだはずの男」を見送った。
「景綱」
「はい」
「久太郎殿をちゃんと返せるように頼むぞ」
「承知しました」
「久太郎殿も」
「何でしょう」
「温泉、いいよ」
久太郎はしばらく黙っていた。
「……ありがたく、いただきます」
官兵衛がまた横を向いた。
こうして織田家の重要な捕虜、堀久太郎秀政は牢ではなく――
有馬の湯治場へ送られることになった。




