山を越えて来た援軍
天正元年――一五七三年四月下旬。
黒田官兵衛は山の上から、遥か眼下に広がる陣を眺めていた。
「あれ、佐野じゃないか」
虎衆の一人が何気なく言った。
「……どれだ」
「あそこ」
「どこだ」
「あの旗の右」
官兵衛は目を凝らした。
旗は見える。
陣も見える。
人が動いているのも分かる。
だが、一人一人など米粒ほどにしか見えない。
「本当に佐野殿なのか」
「たぶん」
別の虎衆も覗き込む。
「ああ、佐野だ」
「その隣、篠原じゃないか?」
「篠原だな」
「お前たちは何を見ているんだ……」
官兵衛には分からなかった。
だが、これまでの道中で虎衆の目については嫌というほど思い知らされている。
官兵衛は鷹衆の一人を呼んだ。
「佐野殿の陣へ行け」
「何と伝える?」
「有馬より黒田官兵衛、少弐冬明様の命により援軍として参着した――それだけでよい」
「分かった」
「待て」
走り出そうとした男を官兵衛が止めた。
「我らの数も、いる場所も言うな」
鷹衆の男が頷く。
「佐野殿本人か、その側近だけに伝えろ」
「分かった」
そして走った。
速い。
官兵衛は、その背が山中へ消えるのを見送った。
「……あれも相変わらずだな」
◇
佐野昌綱が報告を受けたのは、それからさほど経たぬ頃だった。
「黒田官兵衛?」
「はっ。有馬より参ったと」
「有馬?」
佐野は聞き返した。
「冬明はどうした」
「羽柴勢を播磨より退けたとのこと」
佐野の隣にいた篠原が顔を上げた。
「もうか」
驚いたのはそこではない。
羽柴が退いたという報せは断片的ながら届き始めていた。
だが、少弐軍も無傷ではない。
あれほどの軍勢を相手にした直後である。
しばらく動けないと思っていた。
「それで冬明が来たのか?」
「いえ」
「では誰だ」
「黒田官兵衛殿にございます」
「兵は?」
「虎衆、鷹衆、それに少弐勢の精鋭を率いております」
佐野はしばらく黙った。
「……あいつ」
羽柴を追い払った直後に、もう兵をこちらへ寄越したらしい。
「どこにいる」
「山中に」
「どこの山だ」
「それが――」
使者は少し困った顔をした。
「説明しづらく」
「何だそれは」
「道を通っておりませぬので」
篠原が眉をひそめた。
「では、どうやって来た」
「山を越え、川を渡って参りました」
「軍勢が?」
「はい」
佐野は思わず笑った。
「冬明のところは、相変わらず妙な連中ばかりだな」
◇
官兵衛が佐野の陣へ姿を現したのは、その日のうちだった。
「黒田官兵衛、参りました」
佐野は官兵衛を見て、その後ろを見た。
「本当に来たのか」
「はい」
「冬明は?」
「有馬に残りました」
「怪我でもしたか」
「いえ。負傷者を収容しております。兵庫津の守りと周辺の警戒も必要ですので」
「それで、お前を寄越した」
「左様にございます」
「何と言われた?」
官兵衛は少し考えた。
「佐野殿を助けてこい、と」
「……それだけか」
「それだけにございます」
佐野が笑った。
「冬明らしい」
官兵衛も笑った。
「私も、そう思います」
◇
すぐに評定となった。
佐野側から現在の戦況が説明される。
敵は丹羽長秀。
まだ軍として崩れてはいない。
羽柴のように兵糧を失い、山中で疑心暗鬼になった軍ではない。
兵もいる。
将もいる。
統制も取れている。
官兵衛は話を聞き終えると尋ねた。
「丹羽勢は、我らが来たことを知っておりますか」
「いや」
「ならば知らせぬ方がよろしいでしょう」
佐野が官兵衛を見る。
「何をする」
「まず見ます」
「見る?」
「はい」
◇
翌朝。
官兵衛は佐野を高所へ連れ出した。
そこにはすでに虎衆が何人も散っていた。
「見えるか」
官兵衛が尋ねる。
「見える」
「丹羽は?」
「あっち」
虎衆の男が指した。
佐野が目を凝らす。
「……陣は分かる」
「丹羽はあの辺」
「人まで見えるのか」
「うん」
別の虎衆が言った。
「馬が増えてる」
「どこだ」
「あそこ」
「荷駄は?」
「後ろ」
「昨日より?」
「少し動いた」
佐野が官兵衛を見た。
「お前、これを使っていたのか」
「私も昨日、初めて知りました」
「何を」
「ここまで見えるとは思っておりませんでした」
佐野が笑った。
「お前も驚いているのか」
「かなり」
官兵衛は素直に認めた。
だが、もう使い方は考えていた。
虎衆が見る。
鷹衆が走る。
情報が官兵衛へ集まる。
そして佐野軍が動く。
「援軍が来たことは隠しましょう」
官兵衛が言った。
「虎衆と鷹衆は山から出しません」
「精鋭は?」
「後ろに置きます」
「丹羽には、今まで通り俺しか見えんということか」
「はい」
官兵衛は笑った。
「むしろ少し弱くなったように見せてもよろしいかと」
佐野も意味を理解した。
「出てこさせるのか」
「出てくるなら」
◇
丹羽長秀は動いた。
佐野勢の圧力がわずかに弱くなった。
そう見えた。
だから少し前へ出た。
官兵衛は何もしなかった。
さらに出る。
まだ何もしない。
「官兵衛」
阿波辺岩蔵が苛立った。
「まだか」
「まだです」
「佐野勢が押されているぞ」
「分かっています」
鷹衆が走ってくる。
「丹羽の後ろ、兵が減った」
「荷駄との間は?」
「開いた」
「虎衆は?」
「もう回ってる」
官兵衛が初めて笑った。
「では始めましょう」
◇
最初に消えたのは伝令だった。
次に橋の一つが使えなくなった。
荷駄の端で騒ぎが起こった。
馬が逃げた。
丹羽軍後方から急報が来る。
兵を戻す。
すると佐野正面が薄くなる。
「押してください」
官兵衛が言った。
佐野軍が前へ出た。
丹羽は正面へ兵を戻す。
するとまた後ろで騒ぎが起こる。
どこから敵が来ているのか分からない。
だが丹羽は、羽柴ほど混乱しなかった。
何度か兵を動かした後、状況を理解した。
「……援軍が来ているな」
そして判断も早かった。
これ以上前へ出れば危険。
丹羽は撤退を決めた。
◇
「下がり始めた」
虎衆から報告が来た。
官兵衛は佐野を見る。
「追うか」
「追います」
「どこまで」
「追い出すまで」
佐野が笑った。
「それ以上はいらん」
「同感です」
官兵衛は鷹衆へ命じた。
「虎衆へ伝えろ。一つだけ道を空けろ」
「逃がす?」
「丹羽はな」
佐野が官兵衛を見る。
「長秀を取らんのか」
「取ろうとすれば、全軍が死に物狂いになります」
「なるほど」
「帰っていただきましょう」
「では誰を取る」
官兵衛は山から届いた報告を見た。
「後ろに残る者です」
◇
丹羽長秀は主力を退かせた。
その殿に立った一隊があった。
若い将がいる。
虎衆が見つけた。
「官兵衛」
「誰だ」
「赤井甚兵衛が知ってる」
甚兵衛が遠くを見る。
「あれは――堀久太郎だ」
「秀政?」
「ああ」
官兵衛の目が細くなった。
「若いな」
「だが信長お気に入りの近習だ」
「なら殺すな」
甚兵衛が官兵衛を見る。
「取るのか」
「生きている方が高い」
◇
阿波辺岩蔵らが堀隊へぶつかった。
堀久太郎は若かったが、簡単には崩れなかった。
丹羽を逃がすため踏みとどまる。
だが横へ逃げようとすれば虎衆がいる。
連絡を取ろうとすれば鷹衆に遮られる。
正面には佐野勢。
少しずつ包囲が狭まった。
それでも官兵衛は完全には閉じなかった。
雑兵が逃げられる隙間を残した。
逃げる者は追わない。
その結果、堀の周囲から兵が減っていった。
最後まで残った者だけが捕らえられた。
堀久太郎秀政も、その中にいた。
「首を取らぬのか」
負傷した堀が尋ねた。
官兵衛は答えた。
「首は、一度取れば終わりです」
「……何?」
「生きておられれば、織田殿と何度でも話ができます」
◇
丹羽軍は退いた。
その報は、ほどなく大和方面にも届いた。
羽柴が播磨から退いた。
丹羽も佐野を崩せず退いた。
そして佐野軍は健在。
その背後には、少弐から送られた新手までいる。
大和に展開していた佐久間・滝川にとって、戦い続ける理由が消えた。
むしろ残れば、自分たちだけが突出する。
佐久間は退いた。
滝川も続いた。
敗走ではない。
軍を壊さず、戦線を整理するための撤収だった。
佐野も追わなかった。
◇
やがて官兵衛は佐野と並んで、織田勢が去っていく方向を眺めた。
「終わりましたな」
「まだだ」
佐野が言った。
「捕虜がいる」
堀久太郎。
さらに戦闘の中で捕らえた織田家中の有力武将たち。
「返しますか」
「返す」
佐野の返事は早かった。
「だが、ただでは返さん」
官兵衛が笑った。
「何をお求めで?」
佐野は北を見た。
「比叡山までだ」
官兵衛が少し驚いた。
「ずいぶん取りますな」
「違う」
佐野は首を横に振った。
「こちらが比叡山まで欲しいと言っているのではない」
羽柴が退いた。
丹羽が退いた。
佐久間も滝川も退いた。
織田方の前進線そのものが後ろへ下がっている。
「もう、そこまで退いておる」
佐野は言った。
「ならば、その線を境にしようというだけだ」
堀久太郎一人の値ではない。
捕らえた将たちを返す。
丹羽を追わない。
佐久間も滝川も追わない。
そして今回の戦を終わらせる。
そのすべての代価として、現在の軍事境界を認めさせる。
官兵衛はしばらく考えた。
「織田殿は怒るでしょうな」
「怒らせておけ」
「断れば?」
「久太郎には飯を食わせて待たせる」
官兵衛は吹き出した。
「なるほど」
佐野は笑った。
「殺すより高いのだろう?」
「左様にございます」
山城・大和へ伸びていた織田の手は、こうして押し戻された。
羽柴を退けた少弐冬明。
丹羽を退けた佐野昌綱と黒田官兵衛。
そして戦況を見て自ら撤収した佐久間・滝川。
誰も岐阜を攻めようとはしなかった。
京都を奪おうともしていない。
ただ――。
出てきた織田勢を、元のところまで押し戻した。
官兵衛は、ようやく少弐から命じられた言葉を思い出した。
――佐野殿を助けてこい。
「……少弐様」
官兵衛は小さく笑った。
「少々、助けすぎましたかな」




