米粒の中の大将――虎衆の眼
天正元年――一五七三年四月下旬。
有馬を発った黒田官兵衛は、道中で何度驚かされたか分からなくなっていた。
まず鷹衆が速かった。
軽装で先行し、道を確かめ、集落や敵影を調べ、報告するとまた消える。
斥候として優秀なのは聞いていた。
だが実際に自分で使ってみると、その速さは想像以上だった。
そして虎衆は、もっとおかしかった。
速いというより、道というものに対する考え方が違う。
街道が曲がっている。
なら山を越える。
橋が遠い。
なら川を渡る。
馬が通れない。
なら馬を置いていく。
「待て」
官兵衛は何度言ったか分からない。
「そっちに道はないぞ」
「うん」
「ではなぜ行く」
「近いから」
虎衆にとっては、それで十分だった。
急な斜面を登り、尾根を渡り、谷へ降りる。
木々の間を抜ける。
川へ出れば浅瀬を探すことさえあるが、遠ければそのまま渡る。
綱を張り、互いを支え、荷を濡らさぬよう頭上に掲げて対岸へ上がる。
そしてまた歩く。
阿波辺岩蔵まで途中から呆れていた。
「こいつら、本当に人か?」
「岩蔵」
シレトクが振り返る。
「何だ」
「遅い」
「お前らがおかしいんだ!」
官兵衛は何も言わなかった。
言い返す元気もなくなっていた。
◇
それでも、この進み方には明確な利点があった。
早い。
とにかく早い。
軍勢なら街道を使う。
荷駄が通れる道を選ぶ。
橋を渡る。
峠を越える。
そのため実際に歩く距離は、地図の上の直線よりはるかに長くなる。
虎衆は違う。
目的地を決める。
山がある。
越える。
川がある。
渡る。
だから地図の上に線を引いたように進んでいく。
もちろん全軍では無理だ。
大砲も大量の荷駄も運べない。
騎馬隊も連れていけない。
だが、少弐が官兵衛に預けたのは、そういう軍ではなかった。
虎衆。
鷹衆。
そして正規兵の中でも、この行軍についていける者だけ。
いつの間にか官兵衛自身まで、普通の軍勢なら考えもしない場所を歩いていた。
「……羽柴殿も大変だったろうな」
官兵衛が呟いた。
「何が?」
岩蔵が聞く。
「これを敵に回していたんだ」
街道を押さえても来る。
橋を見張っても来る。
峠を封鎖しても来る。
しかも攻撃したら山へ消える。
「物の怪だと思うわけだ」
少しだけ、羽柴秀吉に同情した。
◇
やがて一行は高い尾根へ出た。
先頭を行っていた虎衆の何人かが、急に足を止めた。
「いた」
官兵衛が顔を上げる。
「敵か?」
「違う」
一人が遠くを指差した。
「佐野」
「何?」
官兵衛は急いでその場所まで登った。
眼下に山々が重なっている。
その向こう。
開けた場所に、確かに軍勢らしいものが見えた。
小さい。
あまりにも遠い。
旗が何本か立っている。
人間もいるのだろう。
だが官兵衛の目には、ほとんど米粒だった。
「佐野勢か?」
「そうだと思う」
「旗が見えるのか」
「旗も」
虎衆の男が答えた。
そして何気なく付け加えた。
「あれ、佐野じゃないか?」
官兵衛は固まった。
「……何?」
「あそこ」
指を差す。
「どこだ」
「あの大きな旗の右」
官兵衛は目を細めた。
何かがいる。
人間だろう。
それくらいしか分からない。
「どれだ」
「動いた」
「全部動いている!」
「いや、佐野」
「だからどれだ!」
虎衆の男は不思議そうに官兵衛を見た。
「見えない?」
「見えるか!」
そこへ別の虎衆が来た。
「何してる」
「佐野を見てる」
「ああ」
その男も眼下を眺める。
「あれだな」
官兵衛は二人を見た。
「お前も分かるのか?」
「うん」
しばらく見ていた男が、さらに言った。
「その隣、篠原じゃないか」
「篠原?」
官兵衛はもう一度眼下を見る。
駄目だった。
人間が二人いることすら自信がない。
「篠原だな」
「たぶん」
「少し痩せたか?」
「そこまでは分からん」
官兵衛が振り返った。
「そこまでは分からん?」
「遠いから」
「今さら遠いと言うのか!」
阿波辺岩蔵が腹を抱えて笑い始めた。
「官兵衛、お前、負けてるぞ」
「何にだ!」
「目に」
「競ってない!」
◇
シレトクもやって来た。
「何が見えた?」
「佐野」
「どこ?」
「あそこ」
虎衆が指差す。
シレトクがしばらく眺めた。
「ああ」
官兵衛は嫌な予感がした。
「佐野だな」
「お前までか」
「その横、篠原じゃないか?」
「もういい!」
官兵衛は諦めた。
だが、少しして表情が変わった。
「待て」
もう一度、眼下を見る。
「お前たち」
「うん」
「人が見えるんだな」
「見える」
「どこに何人くらいいるかも?」
「大体なら」
「馬は?」
「見える」
「荷駄は」
「見える場所なら」
「旗の位置は?」
「もちろん」
「人が集まっている場所と、少ない場所も?」
「分かる」
官兵衛は黙った。
頭の中で何かが動き始めた。
虎衆の男が尋ねる。
「どうした?」
「いや」
官兵衛は考えていた。
これは単に目がいいという話ではない。
山の上から敵陣を見る。
旗だけではなく、人間の動きを見る。
馬がどこに集まっている。
荷駄がどこにある。
どちらから伝令が来る。
どの一角だけ人が増えた。
それが遠方から分かるなら――。
「敵の大将も見つけられるのか?」
「知ってる顔なら」
「顔まで?」
「顔というより」
虎衆の男は少し考えた。
「服とか、歩き方とか、周りの人とか」
別の男が補足する。
「偉い人は周りが違う」
官兵衛は感心した。
確かにそうだ。
大将本人の顔が判然としなくてもいい。
旗。
供回り。
馬。
装束。
周囲の兵の動き。
それらを合わせれば、誰がいるのか推測できる。
「……なるほど」
官兵衛が笑った。
岩蔵がその顔を見る。
「官兵衛」
「なんだ」
「今、何か悪いことを考えただろう」
「失礼な」
「その顔は絶対そうだ」
「私は佐野殿を助ける方法を考えているだけだ」
「それを悪いことと言うんじゃないのか」
官兵衛は答えなかった。
◇
鷹衆が偵察から戻ってきた。
「旗を確認した。佐野勢で間違いない」
「やはりな」
官兵衛は頷いた。
虎衆は、とっくに佐野本人らしき姿まで見つけていた。
「こちらが見える距離まで近づく必要はない」
官兵衛は言った。
「まず佐野殿へ使者を出す」
「何と伝える?」
「有馬より黒田官兵衛、少弐冬明様の援軍として参った、と」
鷹衆の一人が頷く。
「それだけ?」
「それだけでいい」
男はすぐ走り出した。
官兵衛はその背を見送った。
やはり速い。
だが今は、鷹衆の足よりも虎衆の眼の方が気になっていた。
官兵衛は再び山の下を眺める。
自分には米粒ほどにしか見えない軍勢。
その中から虎衆は人を見つける。
「あれが佐野」
「あれが篠原」
まるで隣村の人間でも見つけたように言う。
官兵衛は小さく笑った。
「少弐様……」
こんな連中を自分に預けたのか。
山を越える。
川を渡る。
道を無視する。
遠くを見る。
そして鷹衆が、その情報を恐ろしい速さで運ぶ。
官兵衛の中で、虎衆と鷹衆の使い方が急速に組み上がっていった。
少弐は彼らを羽柴への嫌がらせに使った。
それは正しい。
だが――。
「まだ、いろいろできそうだな」
官兵衛が呟いた。
「何が?」
シレトクが聞く。
「こっちの話だ」
眼下には佐野勢。
その向こうには、まだ見えない敵がいる。
官兵衛は立ち上がった。
有馬からここまで、思っていたより遥かに早く着いた。
ならば敵にとっても同じだ。
まだ来るはずがない場所に、少弐の援軍はもう来ている。
そして、その援軍の目には――。
遥か彼方の人間さえ、米粒では済まなかった。




