勝者のもとに集う旗――宇喜多、播磨を去る
戦が終わってみれば、不思議なことになっていた。
羽柴秀吉は、播磨へ入ってきたときより明らかに弱くなって帰っていった。
森可成を失った。
兵糧を失った。
偽りの情報に振り回され、山中を追い回され、殿に残した須知左馬之助景綱も死んだものと思っている。
主力そのものは守った。
それはさすがだった。
だが、失ったものは少なくない。
一方の少弐冬明は、勝ったにもかかわらず兵を追撃に使い潰さなかった。
傷ついた正規兵を有馬へ集め、動ける虎衆と鷹衆は黒田官兵衛に預けて佐野昌綱の救援へ送った。
そして戦後。
今度は、戦の最中には動かなかった者たちが少弐のもとへ集まり始めた。
東播磨。
南播磨。
兵庫津周辺。
有馬へ続く街道沿い。
昨日まで様子を見ていた国人たちが、一家、一党ごと臣従を願い出てくる。
少弐はそのたび赤井直正に聞いた。
「あれ誰?」
「あれはいい」
「じゃあ、あっち」
「あれは少し待て」
「なんで?」
「隣と仲が悪い」
「……面倒だな、播磨」
「どこでも同じだ」
そんなことを繰り返しているうちに、少弐の周囲には戦前より多くの旗が立つようになっていた。
少弐自身には、それほど勢力を広げたという感覚はない。
兵庫津を養う後背地が欲しい。
街道を安全にしたい。
港へ米や薪、木材、野菜を運んでもらいたい。
その程度の感覚だった。
だが――。
少し離れた場所から眺めれば、まるで違って見えた。
◇
それを一番よく分かっていたのが、宇喜多だった。
羽柴と少弐の戦いを見届け、絶妙なところで少弐に近づき、結果として追撃戦の先鋒まで務めることになった宇喜多勢は、まだ播磨に残っていた。
少弐としては、礼を言いたかった。
理由がどうであれ、最後には羽柴を追ってくれた。
だから落ち着いたら一度招き、酒でも出そうと思っていた。
ところが宇喜多側から先に使者が来た。
「帰る?」
「はっ」
少弐は少し意外だった。
「もう少しいてもらってもいいんだけど」
使者は丁寧に頭を下げた。
「ありがたきお言葉。しかし我らも領国を長く空けております」
「備前か」
「はっ。また西には毛利もおりますゆえ」
毛利。
その名前を出されると、少弐にも引き止める理由はなかった。
「それはそうだな」
「このたび羽柴勢も退きました。播磨もひとまず静まりましょう。我らも領国へ戻り、毛利への備えを整えたく存じます」
「分かった」
少弐は素直に頷いた。
「宇喜多殿には礼を言っておいてくれ。助かった、と」
「必ず」
「今度はもう少しゆっくり話したいとも」
使者は一瞬だけ間を置き、それから頭を下げた。
「お伝えいたします」
◇
だが、宇喜多が帰る理由は、それだけではなかった。
播磨が静かになったからではない。
むしろ逆だった。
静かになりすぎたのである。
羽柴が去った。
すると、播磨の国人たちが少弐のもとへ集まり始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
昨日まで中立だった旗が、次々と有馬へ向かう。
少弐が脅したわけではない。
城を攻めてもいない。
人質を要求したわけでもない。
なのに増えていく。
それが宇喜多には不気味だった。
羽柴秀吉は戦って兵を減らした。
少弐冬明は戦った後に兵が増えている。
しかも黒田官兵衛という男は、虎衆・鷹衆を連れて別の戦場へ向かった。
つまり――。
これで全軍ではない。
宇喜多が期待していたのは、羽柴と少弐が互いに傷つき、どちらも動けなくなる結末だった。
実際、少弐自身と正規兵は疲弊している。
そこまでは読み通りだった。
だが、その空いたところへ播磨の国人が入ってきた。
減った兵を、土地の者が埋め始めている。
これは少し、話が違う。
ここへ長居してはいけない。
少弐が宇喜多を疑っているからではない。
疑っていないからこそ怖かった。
先鋒を頼めば宇喜多が先鋒をしてくれると思い、援軍なら礼を言い、帰ると言えば、
「そうか。毛利に気をつけて」
と本気で送り出す。
策を巡らせているのか、何も考えていないのか。
宇喜多には最後まで判然としなかった。
だから帰る。
まだ帰れるうちに。
◇
宇喜多勢が播磨を去る日、少弐はわざわざ見送りに出た。
「このたびはありがとう」
少弐は素直に頭を下げた。
「羽柴を追ってくれたのは助かった」
「いやいや。我らは大したことをしておりませぬ」
「そんなことないよ」
少弐は笑った。
「今度、備前にも行ってみたいな」
一瞬。
宇喜多方の何人かの顔が固まった。
少弐は気づかなかった。
「児島も見てみたい。瀬戸内を西へ行くなら、あの辺りは大事だろ?」
「……左様でございますな」
「その時はよろしく」
「もちろん」
笑顔で答えながら、宇喜多側では別の意味に聞こえていた。
――児島まで見ているのか。
もちろん少弐は、港と航路の話をしているだけだった。
だが、そんなことは宇喜多には分からない。
「では、毛利への備えもございますので」
「ああ」
少弐は頷いた。
「気をつけて」
宇喜多勢は帰っていった。
その背を見送りながら、少弐は少し残念そうに呟いた。
「酒くらい出したかったんだけどな」
隣の赤井直正が言った。
「帰らせてやれ」
「なんで」
「怖いんだろう」
「毛利が?」
直正は少弐を見た。
それから周囲を見た。
有馬には、今日も新しい旗が増えていた。
「……まあ、それでもいい」
「なんだよ」
「何でもない」
直正は笑った。
羽柴秀吉は、播磨で森可成を失い、兵を減らして帰った。
宇喜多は、それを見届けて備前へ帰った。
そして少弐冬明のもとには――
戦が終わってから、兵が集まり始めていた。
少弐本人だけが、その意味をまだそれほど深刻には考えていなかった。




