死者の下から見た世界――須知左馬之助景綱
別所四十郎との面会を終えると、赤井直正は立ち上がった。
「もう一人いる」
「羽柴方の負傷者って言ってた人か」
「ああ」
直正はそれだけ言って、少弐冬明を負傷者を収容している一角へ連れていった。
有馬には味方だけではなく、羽柴方の負傷者も運び込まれている。
少弐が敵味方を問わず、生きている者は収容するよう命じたためだった。
その中に、妙に元気な男がいた。
頭に布を巻き、腕や頬には擦り傷がある。歩くと多少足をかばっているものの、重傷にはとても見えない。
直正が言った。
「須知左馬之助景綱だ」
男が頭を下げた。
「須知左馬之助景綱にございます」
「少弐冬明だ」
「存じております」
少弐は景綱を眺めた。
「怪我は?」
「落馬いたしました」
「それで?」
「以上にございます」
「……それだけ?」
「はい」
少弐は直正を見た。
「なんで負傷者として運ばれてきたんだ?」
「俺に聞くな」
直正が景綱を見る。
「こいつに聞け」
景綱は少しだけ気まずそうな顔をした。
「死んだふりをしておりました」
「……何?」
「死者の下に潜っておりました」
少弐はしばらく景綱を見た。
「最初から説明してくれ」
「承知いたしました」
◇
須知左馬之助景綱は、もともと羽柴秀吉の古参ではない。
丹波の武士だった。
戦乱の中で故郷が織田・明智の勢力下へ落ち、その過程で羽柴に拾われた。
景綱には腕があった。
戦えば強い。
兵を預ければまとめられる。
だから秀吉も登用した。
だが――それだけだった。
美濃以来の者でもなければ、長年秀吉と苦楽を共にした腹心でもない。
丹波で拾った、有能な駒。
景綱自身も、自分の立場をよく理解していた。
だから羽柴軍が播磨から撤退すると決まったとき、殿隊長を命じられても驚かなかった。
「つまり」
少弐が聞いた。
「殿を任されたのは、信用されていたからじゃない?」
「むしろ逆にございます」
景綱は笑った。
「羽柴殿には昔から従う者がおります。美濃の者、若狭で得た者、これから先も必要になる者がおります」
「それで丹波で拾ったお前を残した」
「私でもそういたします」
少弐は景綱を見た。
「怒ってないのか?」
「多少は」
景綱はあっさり認めた。
「ですが、戦とはそのようなものでございましょう」
自分が羽柴の立場なら。
昔から仕えてくれた者と、つい最近拾った者。
どちらか一人を危険な殿に残さなければならない。
ならば――後者を選ぶ。
「理屈は分かります」
「でも、死ぬのは嫌だった?」
「はい」
今度の返事は早かった。
少弐は思わず笑った。
「そこは即答なんだな」
「死にたくありませんので」
◇
それでも景綱は、最初から逃げたわけではなかった。
殿隊長として兵をまとめた。
羽柴本隊との距離を作り、追ってくる敵を食い止めた。
退ける者を退かせた。
そして少弐方の奇襲を受けた。
戦列が崩れる。
馬が倒れた。
景綱も地面へ投げ出された。
起き上がったときには、周囲はすでに混乱していた。
羽柴本隊は遠い。
自分の隊も崩れている。
ここから死ぬまで戦ったところで、秀吉をさらに遠くへ逃がす役にも立たない。
「そこで思いました」
「何を?」
「義理は果たした、と」
少弐が少し笑った。
「自分で決めるんだ」
「羽柴殿には私を捨てる理由がございました」
景綱は平然としていた。
「ならば私にも、羽柴殿のために死なぬ理由がございます」
景綱は周囲を見た。
死者がいる。
ならば、その下へ潜った。
「……本当に潜ったのか」
「はい」
「怖くなかった?」
「死ぬ方が嫌でした」
血と泥を身体につけ、景綱は息を潜めた。
少弐方の兵が近づいても動かなかった。
首実検まで待つつもりだった。
ところが、そこで妙な光景を見た。
「少弐方の兵が、羽柴の負傷者を運んでおりました」
「ああ」
「最初は捕虜にして殺すのかと思いました」
「殺さないよ」
「見ていれば分かりました」
味方も運ぶ。
敵も運ぶ。
息があるか確認し、生きていれば有馬へ送っている。
景綱は死者の下で考えた。
このまま本当に死者になる必要があるのか。
「それで?」
「出ました」
「死体の下から?」
「はい」
「兵は驚いただろうな」
「槍を向けられました」
「そりゃそうだ」
「『生きております』と申しました」
直正がとうとう笑った。
「お前、本当に昔から変わらんな」
「赤井殿に言われたくありませぬ」
◇
少弐は景綱を改めて見た。
「故郷へ帰りたい?」
景綱の顔から笑みが消えた。
「故郷は丹波にございます」
「うん」
「そして今は明智、織田の手に落ちた」
しばらく沈黙した。
「憎いですよ」
初めて、景綱の声に別のものが混じった。
「何とも思わぬわけがない」
だが景綱は続けた。
「ただ――同時に、よい機会だとも思いました」
「機会?」
「はい」
景綱は自分の手を見た。
「死者の下におりますとな」
「うん」
「考えることくらいしかすることがないのです」
「まあ、そうだろうな」
「なぜ俺は、こんなことまでして生きているのだろう、と」
答えは意外なほど簡単だったという。
「見たいのです」
「何を?」
「世界を」
少弐は黙った。
「兵庫津の殿は変わり者だと聞きました」
「誰から聞いた」
「皆が言っております」
「そんなに?」
「世界を旅したとも」
「まあ、それは本当だ」
すると景綱の目が変わった。
「大きな猫がおるというのは本当ですか」
「虎?」
「虎というのですか」
「いるよ」
「どれほど大きい?」
「でかい」
「見ましたか」
「皮なら。生きているのはまだだ」
「では大きな魚は?」
「鯨?」
「それです」
「魚とはちょっと違うけど、いる」
「船より大きい?」
「種類によってはな」
「人のような猿もいるとか」
「いるらしい。俺も見たい」
景綱が身を乗り出した。
「本当に?」
「本当に」
直正が呆れた顔で二人を見た。
「お前たち、何の話をしているんだ」
「大事な話だ」
少弐と景綱の声が重なった。
二人とも一瞬黙った。
それから笑った。
◇
「こんなところで死にたくないのです」
景綱が言った。
「丹波だけを見て、戦って、そこで死ぬ。それではあまりにも惜しい」
「だから死者の下まで潜った?」
「はい」
「格好悪いとは思わなかった?」
「生きていれば、後でいくらでも格好をつけられます」
少弐は笑った。
気に入った。
武勇ではない。
家柄でもない。
羽柴の殿を務められるだけの指揮能力は確かに魅力だった。
だが、それ以上に少弐が気に入ったのは、この男の生への執着だった。
死を恐れない男はいくらでもいる。
命を捨てることを美徳とする者もいる。
だが少弐がこれから向かおうとしている場所では、それだけでは困る。
北の海。
未知の沿岸。
言葉も通じぬ土地。
地図にない港。
どれほど勇敢でも、死んでしまえば報告は帰ってこない。
必要なのは――
何があっても生きて帰ってくる男。
少弐は思った。
この男なら、死地へ送っても死者の下から這い出して帰ってきそうだ。
「景綱」
「はい」
「俺に仕える?」
景綱が目を瞬いた。
「……よろしいので?」
「何が?」
「私は羽柴殿から殿を任されながら、最後には死んだふりをして生き延びた男です」
「でも、殿の仕事はしたんだろ」
「私なりには」
「ならいい」
少弐はあっさり言った。
「俺は腕や家柄だけで人を選ぶ気はない」
そして景綱を見る。
「世界を見たいんだろ?」
「はい」
「俺もだ」
景綱はしばらく少弐を見つめた。
やがて深く頭を下げた。
「須知左馬之助景綱。お仕えいたします」
「よろしく」
少弐も頭を下げた。
◇
直正が聞いた。
「それで、こいつをどうする?」
「働いてもらう」
「もうか?」
「軽傷だろ」
景綱が答えた。
「走れます」
「馬は?」
「乗れます」
「戦える?」
「戦えます」
「なら問題ない」
少弐は地図を引き寄せた。
「兵庫津へ行ってくれ」
「兵庫津へ?」
「陶衆の杉殿や問田殿には、そろそろ礼をして帰ってもらいたい」
羽柴との戦いで兵庫津を守ってくれた陶衆には十分働いてもらった。
代わって、臣従を申し出てきた播磨国人たちを守備に組み込み始める。
「別所四十郎という男に、その兵を預けようと思っている」
「別所四十郎……」
景綱も名前を知っているらしい。
「四十郎を助けてやってくれ」
「承知しました」
「ただし戦を探すなよ」
「はい」
「港を守る。街道を守る。商人を守る。それが仕事だ」
「分かりました」
少弐は最後に一つ付け加えた。
「それと景綱」
「はい」
「ちゃんと生きて帰れ」
景綱は初めて、少し得意そうな顔をした。
「それについては――」
一礼する。
「人より多少、心得がございます」
直正が吹き出した。
少弐も笑った。
こうして羽柴秀吉が丹波で拾い、殿の捨て駒として残し、すでに死んだものと思っている男は――少弐冬明の家臣となった。
忠義に殉じるためではない。
復讐のためだけでもない。
虎を見たい。
鯨を見たい。
人のような猿を見たい。
海の果てに何があるのか知りたい。
だから、生きる。
少弐には、それで十分だった。
世界を見たいという欲は、ときとして忠義よりも人を遠くまで連れていく。




