帰るまでが戦――有馬への道
羽柴秀吉の軍勢が播磨を離れても、少弐冬明には戦が終わったという実感がなかった。
山に入れば、そこかしこに戦の跡が残っている。
折れた槍。捨てられた草鞋。矢の刺さった木。血の染みた土。
そして、帰ることのできなかった者たち。
少弐は追撃を打ち切ると、まず戦場の整理を命じた。
「死者は山に葬ろう。敵味方は分けなくていい。ただ、分かる者の名と場所は残しておけ」
敵兵は奇妙なほど両極端だった。
逃げられた者は必死に羽柴を追って播磨を離れ、逃げられなかった者は山中に残された。その間にいるはずの負傷者が少ない。
それでも探せば、生きている者はいた。
「息があるなら運べ」
「敵であってもですか」
「敵だから山に捨てるのか?」
「……いえ」
「なら運べ。有馬へ」
こうして少弐軍の負傷者は、順次有馬へ集められていった。
味方が圧倒的に多かったが、その中には数少ない羽柴方の負傷兵も混じっている。
有馬なら湯も水もある。
兵庫津から離れすぎてもいない。それでいて山に囲まれ、北方への備えにもなる。
少弐自身も有馬に残ることにした。
正規兵の多くも残す。
羽柴と正面から戦い続けた者たちは限界に近い。傷のない者でさえ、顔を見れば疲労が分かる。
しかし全員を休ませるわけにはいかなかった。
佐野昌綱が、まだ戦っている。
少弐は有馬へ入ったその日のうちに、動ける将を集めた。
黒田官兵衛。
阿波辺岩蔵。
シレトク。
赤井甚兵衛。
エカシロ。
ハウキ。
少弐は彼らの顔を順番に見てから言った。
「兵を分ける」
誰も驚かなかった。
「羽柴は帰った。だが佐野殿の戦は終わっていない」
少弐はまず官兵衛を見る。
「官兵衛」
「はっ」
「虎衆と鷹衆を預ける」
さすがの官兵衛も、少しだけ目を見開いた。
「すべてでございますか」
「動ける者はな」
虎衆と鷹衆は、羽柴との長い戦いの中で後方攪乱を担ってきた。
荷駄を奪い、道を乱し、偽の情報を流し、山中から敵を追い立てた。
戦っていないわけではない。
だが正面で羽柴軍とぶつかり続けた正規兵に比べれば、まだ足が残っている。
「正規兵からも元気な者を選べ。傷のない者だけでいい。無理をさせるな」
「承知いたしました」
「総指揮は官兵衛だ」
少弐は続いて岩蔵を見る。
「岩蔵」
「おう」
「官兵衛を助けろ。向こうへ着けば佐野殿の軍がいる。正面で力が要るところはお前が見ろ」
「任せろ」
「ただし勝手に突っ込むなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「……たぶん」
少弐は一瞬黙った。
官兵衛が横で小さく笑った。
「官兵衛。やっぱり岩蔵を見ていてくれ」
「承知いたしました」
「おい」
少しだけ空気が緩んだ。
次にシレトクを見る。
「シレトク」
「うん」
「山と道はお前に任せる。知らない土地で官兵衛を迷わせるな」
「官兵衛が変な道を選ばなければ大丈夫だ」
「それを止めるのもお前の仕事だ」
「分かった」
そして赤井甚兵衛。
「甚兵衛も行ってくれ」
「俺もか」
「お前はこの辺りの戦を知っている。それに丹波も知っている。官兵衛たちとは見えるものが違うだろう」
甚兵衛は少し考えてから頷いた。
「分かった」
これで佐野援軍の骨格が決まった。
黒田官兵衛を総指揮。
その下に阿波辺岩蔵、シレトク、赤井甚兵衛。
虎衆と鷹衆を主力とし、さらに正規兵からまだ動ける者を選抜する。
少弐がこの戦いで残していた、最後の機動力だった。
「官兵衛」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう」
「佐野殿を助けるのが先だ」
官兵衛の表情が少し変わった。
「丹羽を討つことではない、と」
「そうだ」
少弐は頷いた。
「勝てるなら勝てばいい。捕らえられるなら捕らえればいい。だが戦功欲しさに佐野殿を危険に晒すな」
「心得ました」
「皆、生きて帰ってこい」
それだけだった。
次に少弐はエカシロを見る。
「エカシロは兵庫津へ戻ってくれ」
「港か」
「そうだ」
羽柴が退いたからといって、兵庫津が安全になったとは限らない。
敗残兵。
間者。
戦後の混乱につけ込む盗賊。
そして海から来る者。
「清盛館と港を頼む。船も見ていてくれ。何か変な動きがあっても、無理に戦わなくていい。有馬へ知らせろ」
「分かった」
「兵庫津はまだ戦の後で混乱している。町衆とも話してくれ」
エカシロが頷いた。
最後はハウキだった。
「俺は?」
「有馬の周囲を頼む」
「山?」
「山も街道も」
少弐は周囲を指した。
「敵を探す必要はない。人を見てくれ」
「人?」
「羽柴が帰ったと聞けば、今まで様子を見ていた連中が動き始める」
味方になろうとする者。
商人。
落武者。
播磨の国衆。
あるいは少弐軍の様子を探りに来る者。
「知らない集団が来たら、戦う前に誰なのか聞いてくれ」
「なるほど」
「有馬まで近づけてから『敵でした』は困るぞ」
「そこまで間抜けじゃない」
「なら任せた」
これで役目が決まった。
少弐は有馬。
傷ついた正規兵と負傷者をまとめる。
エカシロは兵庫津。
港と清盛館を見張る。
ハウキは有馬周辺。
山と街道を警戒する。
そして官兵衛たちは佐野のもとへ。
翌朝。
虎衆と鷹衆が動き始めた。
荷は軽い。
羽柴との戦いで、彼らは速く動くことそのものを武器としてきた。
そこへ選抜された正規兵が続く。
少弐は道端に立って、その列を見送った。
官兵衛が馬を止める。
「少弐様」
「なんだ」
「我らが帰ってくるまで、どうかおとなしくしていてください」
少弐は眉をひそめた。
「俺はいつもおとなしい」
岩蔵が吹き出した。
シレトクまで笑っている。
「なんだよ」
「いや」
官兵衛が頭を下げた。
「それでは行って参ります」
「ああ」
少弐は少しだけ間を置いた。
「官兵衛」
「はい」
「帰ってこいよ」
官兵衛は振り返った。
「必ず」
そして一団は有馬を離れていった。
少弐は姿が見えなくなるまで見送った。
羽柴は退いた。
兵庫津は守った。
だが佐野はまだ戦っている。
山にはまだ負傷者がいる。
有馬には治療を待つ者がいる。
兵庫津も戦後の混乱の中にある。
ならば、まだ終わってはいない。
少弐は有馬へ戻った。
「さて」
血と泥で汚れた甚兵衛を脱ぎながら、負傷者を収容した建物へ向かう。
「こっちはこっちで、戦を終わらせよう」
勝っただけでは戦は終わらない。
生きている者を連れて帰り、傷ついた者を治し、送り出した者たちが戻ってくる。
帰るまでが、戦なのだ。




