帰るまでが戦
「一度だけだぞ」
少弐冬明が念を押すと、黒田官兵衛は静かに頭を下げた。
「無論にございます」
羽柴秀吉は、すでに自分たちが丹波への道から外されていたことに気づいている。
偽の斥候はもう使えない。
秀吉は知らぬ顔の者からの報告を信用せず、秀長や竹中半兵衛、美濃衆の古参を使って自ら退路を確かめ始めていた。
ならば、もう騙す必要はなかった。
官兵衛の言う「しつけ」は、ここからだった。
その夜。
少弐勢は、何もしなかった。
矢も飛ばさない。
石も落とさない。
鳥の鳴き真似による合図すらやめた。
羽柴勢の周囲から、突然すべての気配が消えた。
夜が明ける。
山には薄い霧が残っていた。
秀吉は明るくなるのを待って軍を動かした。
「今度こそ丹波へ戻るぞ」
秀長が確かめた道を使う。
前方には信頼できる者しか置かない。
もう知らぬ斥候には頼らない。
羽柴勢がゆっくりと動き始めた。
一町。
二町。
何も起こらない。
「……終わったか」
誰かが呟いた。
その時だった。
後方で、
どん。
一発だけ鉄砲が鳴った。
秀吉が振り返る。
続いて――。
どどん。
今度は複数。
「敵襲!」
最後尾から声が上がった。
だが、それまでとは違った。
矢が一本飛んでくるのではない。
石でもない。
山の両側から、一斉に人が出た。
「虎衆!」
羽柴の後衛が叫ぶ。
少弐虎衆だった。
同時に反対側から鷹衆が降りる。
狙われたのは羽柴軍全体ではなかった。
最後方。
しかも、その中の一部分だけだった。
虎衆が本隊との間へ入り込む。
鷹衆が左右を塞ぐ。
羽柴の最後尾数百が、一瞬だけ本隊から切り離された。
「戻れ!」
秀吉が叫んだ。
前進していた兵が反転しかける。
だが竹中半兵衛が声を張った。
「殿、なりませぬ!」
「後ろが囲まれた!」
「分かっております!」
半兵衛は地形を見ていた。
狭い。
ここで本隊まで反転すれば、前後が詰まる。
敵が待っているのは、むしろそれかもしれない。
秀長も叫んだ。
「兄者! 本隊を止めるな!」
秀吉は歯を食いしばった。
後方から鬨の声が聞こえる。
今まで姿を見せなかった虎衆が、ここだけは容赦なく攻めていた。
それまでの戦とは違った。
矢一本。
石一つ。
鹿の群れ。
そんなものではない。
短く、激しく、まとまった攻撃だった。
羽柴後衛も必死に抵抗した。
だが地形が悪い。
前へ逃げようにも虎衆がいる。
横へ逃げようにも鷹衆がいる。
そして――。
不思議なことに、後ろだけは開いていた。
「退け!」
誰かが叫んだ。
包囲された羽柴兵の一部が、開いている方向へ走った。
追われる。
だが、殺されない。
虎衆は深追いしなかった。
鷹衆も逃げる者を無理に追わない。
戦うため踏みとどまった者だけが、その場に残された。
短い戦だった。
だが最後方の一隊は、ほとんど軍としての形を失った。
そして突然――。
少弐勢は止まった。
「……止んだ?」
秀吉が振り返った。
追ってこない。
本隊へ向かってこない。
こちらへ攻撃を広げようともしない。
壊したのは、最後尾だけ。
それ以上は何もしない。
秀吉は理解した。
「……わざとか」
半兵衛も黙って後方を見ていた。
「はい」
「逃げ道を開けとった」
「おそらく」
秀吉の顔が険しくなる。
本気で羽柴軍を包囲するつもりなら、逃げ道など残さない。
だが少弐は残した。
逃げた者まで執拗には追わなかった。
つまりこれは――。
見せるための戦だった。
羽柴秀吉に、
「まだこれだけできる」
と。
「……小一郎」
「うむ」
「行くぞ」
秀吉は前を向いた。
「ここで意地張ったら、向こうの思う壺じゃ」
羽柴本隊は再び動き始めた。
今度は速かった。
丹波へ。
とにかく播磨から離れる。
それを確認すると、少弐も刀を収めた。
「終わりだ」
官兵衛が尋ねる。
「追わせますか」
「いや」
少弐は首を振った。
「言っただろう。一度だけだ」
そこで役目が分かれた。
鷹衆は戦場に残った。
倒れた者を確認する。
負傷して動けない者を集める。
武具を回収する。
使える馬や荷をまとめる。
羽柴の旗や指物も集められた。
捕虜となった者には水を与え、重傷者には手当ても施す。
もう戦は終わっていた。
これ以上、死者を増やす必要はない。
一方――。
虎衆は消えた。
羽柴兵から見れば、本当にそう見えた。
さきほどまで戦っていた者たちが、いつの間にか山へ戻っている。
だが追撃をやめたわけではない。
監視に切り替えたのである。
羽柴勢が進む。
虎衆も山を進む。
道ではなく尾根を使う。
羽柴が止まれば、虎衆も止まる。
羽柴が丹波方向へ進めば、何もしない。
ところが少しでも妙な方向へ動けば――。
山の上に人影が現れた。
「……おるぞ」
羽柴兵が指差す。
遠くの尾根。
一人。
虎衆だった。
攻めてこない。
ただ見ている。
しばらく進む。
別の山。
またいる。
「またじゃ」
「さっきの奴か?」
「分からん」
羽柴勢は歩いた。
何も起こらない。
鳥が鳴く。
兵が振り返る。
誰もいない。
また歩く。
今度は木々の間に人影が見える。
すぐ消える。
「追うな」
秀吉は言った。
もう分かっていた。
「あいつら、わしらが帰るか見とるだけじゃ」
半兵衛が頷いた。
「播磨へ戻ろうとしなければ、攻めては来ぬのでしょう」
秀吉が鼻で笑った。
「犬でも追い払うように言いおって」
だが否定できなかった。
羽柴勢が丹波へ近づくにつれて、虎衆の姿は減っていった。
最初はすぐ近くの尾根にいた。
次には遠い山。
さらに進むと、姿そのものが見えなくなった。
それでも羽柴兵たちは山を見続けた。
「まだおるんじゃないか」
「見えんだけじゃ」
誰かが言う。
その言葉を否定できる者はいなかった。
やがて羽柴勢が完全に播磨から離れるころ。
最後の一人が尾根に立っていた。
シレトクだった。
遠ざかる羽柴の列を眺める。
隣にいた虎衆の男が聞いた。
「もういいか?」
シレトクはしばらく見ていた。
羽柴勢は戻ってこない。
道を変えない。
確実に丹波へ向かっている。
「うん」
シレトクは頷いた。
「帰るみたいだ」
その言葉が山を伝っていった。
虎衆が一人ずつ引き上げる。
羽柴勢からは見えなかった。
ただ、あるところを境に――。
人影が完全に消えた。
矢も来ない。
石も来ない。
鳥が鳴いても何も起こらない。
鹿が走っても、後ろから兵は出てこない。
本当に終わったのだ。
秀吉は何度か振り返った。
誰もいない。
「……帰ったか」
半兵衛が言った。
「我らが、でしょうな」
秀吉が半兵衛を見る。
「何?」
「向こうからすれば」
半兵衛は播磨の山を振り返った。
「ようやく我らが帰ったのでございましょう」
秀吉はしばらく黙っていた。
そして、
「二度と言うな」
とだけ言った。
だが、その日の羽柴勢は妙に足が速かった。
一方、少弐のもとには、まず鷹衆から報告が届いた。
戦場の始末は終わった。
捕虜と負傷者を収容した。
回収できるものもまとめた。
しばらくして虎衆からも使者が戻った。
「羽柴、丹波へ向かっております」
少弐が尋ねる。
「戻ってくる様子は?」
「ありません」
「そうか」
少弐はようやく腰を下ろした。
「では終わりだ」
官兵衛が笑った。
「これでしばらくは、播磨へ来たいとは申しますまい」
少弐も笑った。
「だといいな」
それ以上、誰も羽柴を追わなかった。
戦場では鷹衆が死者と負傷者を拾い、
山では虎衆が羽柴を見送り、
少弐はただ、帰っていく敵を待った。
この最後の戦で、少弐勢が羽柴軍を壊滅させたわけではない。
潰したのは最後尾の一部だけだった。
羽柴秀吉も生きている。
秀長もいる。
竹中半兵衛もいる。
主力の多くも丹波へ帰った。
それでも羽柴兵たちにとっては、奇妙な敗北だった。
戦って負けたというより――
播磨という土地そのものから、「もう帰れ」と言われたような戦だった。




