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一度だけ、きつく

羽柴秀吉が気づいたのは、完全に手遅れになってからではなかった。


それが秀吉だった。


丹波へ戻っているはずなのに、どうにも西へ振られている。


最初は山道ゆえの迂回と思った。


東へ戻ろうとすると虎衆が現れる。


北西へ進むと、嘘のように静かになる。


だから羽柴勢は静かな方を選んだ。


それを何度か繰り返したところで、竹中半兵衛が言った。


「殿」


「なんじゃ」


「我らが敵の薄い道を選んでいるのではございませぬ」


秀吉も、すでに同じことを考えていた。


「……敵が薄くしとる道を、選ばされとるな」


秀長が周囲の山を見た。


最初に自分が確かめた退路とは、もう明らかに違う。


偽の斥候。


後方からの虎衆。


山中から飛んでくる矢と石。


すべてがつながった。


「止まれ!」


秀吉の命令で、羽柴勢がようやく足を止めた。


「これ以上、斥候の言うまま進むな。道を確かめ直す!」


ここまでだった。


少弐側も、秀吉が罠に気づいたことを察した。


しばらくしてシレトクが少弐の陣へ戻ってきた。


山を歩き続けていたため、衣服には泥と枯葉がついている。


「少弐」


「どうした」


「羽柴、気づいた」


少弐は少しだけ眉を上げた。


「どこまで行った?」


シレトクは地図の上を指した。


本来なら丹波へ向かうはずだった羽柴勢は、すでにかなり西へ振られている。


完全に迷子というほどではない。


だが、元の退路へ戻ろうとすれば相応に時間がかかる位置だった。


「偽の物見は?」


「もう使えない」


シレトクは首を振った。


「羽柴は、自分の知っている者しか信じなくなった」


「そうか」


少弐はしばらく地図を見た。


そして、あっさり言った。


「なら、もうよかろう」


黒田官兵衛が顔を上げた。


「よろしいので?」


「うむ」


少弐は疲れた兵たちを見た。


虎衆も鷹衆も限界に近い。


ここまで十分に働いた。


森可成を失わせた。


荷駄を奪った。


兵糧を偽物と入れ替えた。


羽柴を夢野から退かせた。


さらに丹波への道まで外させた。


「ここから引き返させてもよい」


少弐は言った。


「羽柴も十分痛い目を見た。我らも疲れておる。無理をしてまで追うことはない」


シレトクも異論はなかった。


ところが黒田官兵衛だけが、地図を見たまま動かなかった。


やがて静かに口を開いた。


「少弐様」


「なんだ」


「それでは、羽柴はまた参ります」


少弐が官兵衛を見る。


「来るか?」


「参りましょう」


官兵衛は即答した。


「秀吉という男、ここまでされても軍そのものは残しております。森殿を失い、兵糧を奪われ、道を欺かれた。それでも本隊を崩してはいない」


それは官兵衛なりの秀吉への評価だった。


「丹波へ戻れば立て直します。そして次は、今回と同じ手には掛かりませぬ」


少弐は黙って聞いた。


官兵衛の指が、羽柴勢の現在地へ置かれた。


「ゆえに――」


ほんの少し笑った。


「もう播磨へ来たくないと思うよう、一度だけきつくしつけをいたしましょう」


少弐が官兵衛を見る。


「……しつけ?」


「はい」


あまり戦場では聞かない言葉だった。


シレトクまで官兵衛を見る。


官兵衛は平然としている。


「殺し尽くす必要はございませぬ」


指が地図を滑る。


「むしろ、それではこちらの損が大きい」


「では?」


「逃がします」


官兵衛は言った。


「ただし――」


指が止まる。


「自分たちが逃げ切ったのではなく、逃がされたのだと分からせてから」


少弐の目が細くなった。


官兵衛は続ける。


「これまでは姿を見せなさすぎました」


矢。


石。


鹿。


偽の斥候。


消えた荷駄。


羽柴兵からすれば、何と戦っているのかさえ分からなかった。


「最後だけは逆にいたしましょう」


「姿を見せる?」


「はい」


官兵衛は頷いた。


「羽柴が道を修正し、これで丹波へ帰れると思ったところで、一度だけ真正面から叩く」


少弐は考えた。


「虎衆を?」


「虎衆だけではございませぬ」


官兵衛が少弐を見る。


「ここまで隠していた者を、まとめて見せます」


虎衆。


鷹衆。


動ける正規兵。


そして後方には宇喜多。


これまで別々に見えていた存在を、一瞬だけ同時に羽柴へ認識させる。


「包囲するのか?」


「いたしませぬ」


官兵衛は首を振った。


「包囲すれば、秀吉は死に物狂いで戦います」


逃げ道を一つ残す。


いや。


はっきり見せる。


「こちらだけは空いている、と羽柴に分からせます」


「そこへ逃がす?」


「はい」


少弐は少し笑った。


「今までと同じではないか」


官兵衛も笑った。


「今度は本人に分からせてやるのです」


これまでは知らずに歩かされた。


最後は違う。


羽柴秀吉自身が、


ここしかない。


と理解した上で、その道を選ぶ。


その左右に少弐勢がいる。


追えば討てる距離。


だが追わない。


ただ見送る。


「なるほど」


少弐が地図を見た。


「嫌なやつだな、お前」


「褒め言葉として頂戴いたします」


官兵衛は頭を下げた。


シレトクが二人を見比べる。


「で、俺は?」


官兵衛は即答した。


「羽柴を見ていてください」


「また?」


「今度は隠れなくて結構です」


シレトクが少し驚く。


官兵衛は笑った。


「見つかってください」


少弐まで官兵衛を見る。


「何をする気だ」


「最後くらい――」


官兵衛は地図を畳んだ。


「山のもののけにも、顔があると教えてやりましょう」


少弐はしばらく黙っていた。


やがて立ち上がった。


「分かった」


疲れた身体を伸ばす。


「一度だけだぞ」


「無論」


「それが終わったら帰る」


「承知しております」


少弐は虎衆や鷹衆のいる方を見た。


ここまで長かった。


だからこそ最後は短くする。


殺し尽くす戦ではない。


領地を奪う戦でもない。


ただ一度。


羽柴秀吉という男の記憶に、


播磨へ来れば何が待っているのか。


それを刻みつける。


少弐は息を吐いた。


「では官兵衛」


「はい」


「きつくしつけてやれ」


官兵衛は静かに頭を下げた。


「御意」

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